考察と解釈と鑑賞

曲の歌詞・映画・その他さまざまな物語の考察と解釈

『電脳コイル』におけるイサコとヤサコの成長

頻出する登場人物の名前の「」は省略。

「」は固有名詞または引用時に使用。

〈〉セリフが曖昧な場合の作品からの引用時に使用。

“”は筆者が強調したい言葉において使用。

 

 本稿においてはアニメ『電脳コイル』における二人の主人公であるイサコとヤサコの成長について考察していきたい。必然的に物語の終わりに触れることになるので最終話の終わりの方のシーンもまとめて考察していきたい。

 

〔イサコの成長〕

 物語の終わりではイサコは「あっち」の世界に囚われてしまう。しかしながらヤサコの呼びかけによって「痛みを感じる方向」へ進むことが出来、意識を取り戻すことが出来る。この場面の意図はかなり明確なようにも思えるが改めて考えていきたい。

 先の記事でも考察した通り、イサコは幼い子供の心を持ったままだった。兄に依存し、兄の死を認めず甘い世界にだけ浸っていたいと(本人は気付いていないながらも)考えていた。そしてまた過剰な罪悪感に浸ることもあった。兄の死が自分の原因だと思い、またカンナの死も自分が原因だと考えるようになった。それはすなわち現実を正確に捉えられていなかったということである。そしてイサコの弱さはミチコに付け込まれる要因となり彼女は「あっち」の世界に囚われることになる。この「あっち」の世界に囚われるというのは結局のところ自分に都合の良い空想の世界に浸ることに他ならない。それは弱さから目を逸らし続けることでもある。

 しかしながらイサコはヤサコの呼びかけによって、特にヤサコの心からの呼びかけによって「あっち」の世界すなわち甘く優しい思い出の世界から抜け出すことが出来る。それは自分の弱さを克服したということであり大人になったということである。現実の世界に戻るということは兄のいない世界に戻るということである。それは今まで目を逸らしていた兄の死を受け入れることに他ならない。そして死を受け入れるつらい現実と向き合うということは子供から大人になったことに相違ない。

 ではなぜイサコはその世界から抜け出すことが出来たのか。根本的には成長することが出来たのか。それはヤサコとの触れ合いがあったからである。イサコは作中でヤサコに〈こんなに自分の近くまで来てくれたやつは初めてだ〉と言う。そんな風に自分の心に近づいてくれる人がいたからこそイサコは物語を通して成長することが出来たのではないだろうか。なぜなら自分の殻に閉じこもるのではなく他者と触れ合うことこそが人を成長させることにつながるからだ。

 またイサコとヤサコは幼い頃同じ人を好きになっていた。イサコにもそれは当てはまるのかと思う人もいるかもしれないが、初恋が兄というのはよくあることではないだろうか。そうした子供時代の思い出を共有している人すなわちどこか自分に似ている人を通して自分を知るのは不自然なことではないだろう。イサコにとってヤサコは他人でありながらもまた自分を映す鏡でもある。だからこそ彼女たちの名前は同じ「ゆうこ」なのである。自分にどこか似ている他者、今の自分を映し出してくれる人と触れ合い向き合ったからこそ自分の弱さを知れたのではないだろうか。もしくはそもそも人と向き合うことこそが自分を知ること、成長することにつながるのだろう。イサコとヤサコ、同じ「ゆうこ」の対立はこのことを表しているのではないだろうか。

 そして何よりイサコが「痛みを感じる方向」に進むことが出来た直接のきっかけはヤサコの呼びかけである。「勇子の勇は勇ましいの勇」という言葉である。ではその言葉によって「痛みを感じる方向に」進むことが出来るとはどういうことだろうか。先ほど引用したヤサコの言葉をきっかけにして、彼女は成長することが出来た。この過程で起きていることは、名前の意味を改めて捉えなおしたということである。そして名前とは自分自身を表す。つまり自分自身の強さを、自分の中にある勇ましさを発見するということである。言い換えればイサコはヤサコによって強さを与えられたということである。ヤサコとの交流を通して少しずつ自分の心の真実を知っていったイサコではあるが、ここで自分には痛みの方へ向かうことの出来る勇ましさがあることを認識するのである。それが直接のきっかけとなっている。

 イサコが前に進む決意をしたとき、彼女のツインテールがほどける。それは子供の自分からの脱却を果たすことを表しているだろう。兄に囚われていた自分から抜け出し、ツインテールという幼い自分を捨て、大人になることを表している。

 そして鳥居の階段で光の中でイサコと対面する。「あっち」の世界とは心の奥底である。その中で二人は向き合うのである。それは無論二人の心が奥底でつながったことを意味するのだろう。その場面、イサコは〈なぜ自分がヤサコを嫌いだったか分かった〉と言う。その理由はもちろんヤサコが兄にキスをしたからである。それはヤサコに対する嫉妬心である。それを認めるのは誰にとっても嫌なものだろう。しかし彼女はそれをも認めることが出来た。他者の前でそれを認めることが出来たのである。

 物語の最後でイサコがヤサコに電話をかける場面がある。その時に私の「名前はイサコだ、あんたがつけてくれた名だ」という。それは他者がつけたものであり、自分以外の誰かと心を通わせたことによってつけられたものである。また「勇子の勇は勇ましいの勇、だからイサコ」と言われることで、イサコは痛みの方へ進むことの出来る勇ましさを持った人になることが出来た。自分の中の強さに気付くきっかけを与えてくれたのはヤサコである。イサコの中の勇ましさとは、ヤサコとの心の触れ合いによって芽生えたものである。イサコのセリフから分かる通り、物語の最後における“イサコ”の名はヤサコがつけたものである。言い換えるならば“イサコ”の名は兄に付けられた名前ではなくなっているということである。それはすなわち兄に依存し、その死を受け入れられない過去の弱いイサコではなくなったということである。そして何より、イサコの持つ勇ましさはヤサコとの交流によって抱くことの出来た大切な長所だということ、自分一人では手にすることが出来なかった自分らしさだということである。イサコは兄に付けられたただの暗号ではなく、自分の名を、ひいては自分自身の長所を友人が見つけてくれたものとして、人とのつながりを通して手に入れたものだとここで認めているのである。

 

〔ヤサコの成長〕

 次にヤサコについて考えたい。ヤサコはイサコの心と繋がったとき、ミチコを作ったもう一人が自分であることを正直に告白する。それはヤサコが自分の過ちに気付くことであり、それを認めることである。ヤサコはイサコと共に自分の過ちに気付くのである。彼女たちは決して自分一人で成長し、弱さを克服しているわけではない。この物語はそうした交流による成長をクローズアップしている。

 その後最終話のラストでヤサコはハラケンに対して〈ミチコはどんな気持ちが産んだんだろう〉というがそれに対してハラケンは初恋という答えを提示する。初恋というものはそのときには気付けないものだ。なぜならそれは初めての経験だからだ。それをきちんと初恋だったといえるのは“初恋”という状態から抜け出したということだ。あれが初めての恋する気持ちだったと距離を取って認識できたことはやはり、一歩大人になったことを意味しているのだろう。

 また、最後にメガネをかけてないのにデンスケの姿が道の先にふと見えるというシーンがある。そして京子に「見えた?」と聞くと京子も頷く。この描写はどのようなことを表しているのだろうか。

 京子もヤサコも様々な場面でデンスケに助けられた。京子は家でヌルに意識を連れ去られた時にデンスケにおぶってもらった。そして「あっち」の世界から電脳の体から抜け出すことが出来、無事意識は肉体に戻ることになった。その後デンスケが死んだあとに京子は〈デンスケは柔らかかったよ、ふかふかだったよ〉という。またヤサコも金沢で「あっち」に入って抜け出すときにデンスケに会う。電脳の世界で。そして彼女はデンスケにサヨナラを言って現実の世界に戻ってくる。そこでヤサコも〈毛並みがふかふかだった〉と言うのである。これらのことはどんなことを意味するだろうか。大切なことは大人たちが〈触れないものは本物じゃない〉と述べるところである。しかしながらそれに対してヤサコは〈触れないけれど胸に感じるこの気持ちは本物だ〉と言う。こうしたヤサコのセリフはもちろん我々も賛成できる主張だろうと思う。電脳の世界であるにしろヤサコはデンスケに触れることが出来たのである。デンスケのことを確かに感じることが出来た。それはつまり電脳の世界であろうとも本当の触れ合いを果たしたということである。本物の交流をしたということである。それはどのような形の交流だったろうか。もちろんあたたかでやさしい交流だ。しかしながら生き物はいつか死ぬ。つまり電脳の世界であろうとも本物の交流はあるし、死もあるのだ。そしてヤサコはきちんとさよならとありがとうと言う。こうしたことはどのようなことを意味しているだろうか。まず大前提としてデンスケとの心の交流は本物なのである。デンスケとそれまで過ごした日々は決して偽りのモノではなく本物の心の交流であるということだ。電脳ペットは子供と心の交流をする存在である。様々な愛情を注ぐこと、守り守られることを通して子供の心は成長していくのである。デンスケとのかかわりは子供たちに感情や楽しみや喜びや痛みなど様々なことを教えてくれるのである。ヤサコはそれに対してありがとうと言ったのである。それだけではない。そういう存在とサヨナラをする。それは死を受け入れるということだ。死をきちんと受け入れることは人が人として成長するためには欠かせないものだろう。デンスケありがとうとサヨナラを言い、毛並みがふかふかだったと感じることは、デンスケと本当の心の交流をし、それによって自分がここまでこれたことのお礼を言い、そしてその死を受け入れたということを意味する。

 そうしたことを受けてラストのシーンを考えたい。彼女たち二人の人としての成長にデンスケは深く関わっている。デンスケはある意味で彼女たちの心の一部を為しているのである。だからこそ、彼女たちの心の一部になっているデンスケは、本当の心の交流をしてきたデンスケは彼女たちの心のどこかにいるのである。そしてその心のどこかにいるデンスケはふとした時に彼女の傍に現れるのである。ふとした時にその存在を彼女たちは感じるのである。デンスケがメガネをかけてなくても見えたのはそのようなことを意味するだろう。またヤサコが京子にそのことを確認して京子も同意するという場面は、彼女たち二人が自分たち二人の心の中にデンスケがいることを確認したということを意味するのである。