『千と千尋の神隠し』考察――千尋と従業員の対比――
※1 登場人物の名前や作中独自の語句が頻出する場合「」は省略。
※2「」は固有名詞または引用時に使用。
※3〈〉セリフが曖昧な場合の作品からの引用時に使用。
※4 “”は筆者が強調したい言葉において使用。
本稿においては従業員が金を貰うためにカオナシを過剰にもてなす場面を考察の対象としたい。そこで明らかにしたいことはこの物語における従業員はどのような存在なのかということである。正確に言えばどのような人間を象徴しているかということだ。物語において言葉を話す動物が特定の人間の姿を表すことがあるというのは物語に馴染みのある人ならば感得していることだろう。『千と千尋』においてもこれら従業員はある種の人間の姿を表している。またそうした従業員と対照をなす千尋の姿についても改めて考察を深めていきたい。
カオナシは皆が寝静まった後の風呂場に居座り、そこを青蛙が見つけて「客人ではないな、そこに入ってはいけないのだぞ」と警告を与える。しかしカオナシは金をちらつかせ、それに釣られた青蛙はカオナシに飲み込まれてしまう。まずはこの一連の流れを考えていきたい。はじめ蛙はカオナシに注意する。客ではない相手が自分の働く店で怪しいことをしているのだからその行為は正しいことだ。従業員として模範的な行為と言っても良い。しかしその後カオナシが金を落とした途端に金に夢中になってしまう。カオナシが何者か、カオナシをどうにかすることそっちのけで金につられてしまうのである。挙句青蛙はカオナシに飲み込まれてしまう。彼はお金につられて自分の従業員としての正しい姿勢を捨ててしまうのである。要するにお金に飲みこまれてしまうのである。ここには金によって職業倫理感を捨ててしまう、卑俗な人間の姿が象徴されているといえないだろうか。
その後もそのような描写は続く。本来開店するはずの時間よりも早い時間からお湯を沸かし従業員総出でカオナシをもてなしている。しかしながらこのとき他の客はどうしているのだろうか。少なからず泊りの客もいるはずで彼らにとっては大変迷惑この上ない。しかしそれを放っておき、金をくれるからと彼らはカオナシにつきっきりになる。またカオナシは湯船の中でごちそうを食べている。どう考えてもマナー違反だろう。そしてまたそれを黙認している従業員もまた褒められたものではない。ここには金銭的なもののためならば他の客のことも店のマナーすらも無視してしまう、浅はかな人間の姿が映し出されている。
そしてそうした姿と対照的なのが千尋である。千尋は金のことには目もくれずにまずは自分の部屋に戻る。そこで白い龍を目撃する。そのとき咄嗟に〈ハク、こっちよ〉という。千尋は白い龍がハクだと気付くのである。千尋は作中できちんと人として大切なモノをもっている。目に見えないものを感じる力があるのである。その後湯屋の上階にいったことを見た千尋はハクを追うために部屋を出て上に行こうとする。そこでカオナシと向かい合うわけだ。その時カオナシは千尋に金を差し出すが千尋は「いらない」という。そして一礼してカオナシの横を通り過ぎる。その時にカオナシの手から大量の金が零れ落ち、従業員はその金に向かって殺到する。一方で千尋はその真逆の方向へと人並みをかき分けて進む。ここに従業員と千尋の明らかな対比的構図が表れている。従業員は職業に対する倫理観よりも完全に金銭的な欲求を優先している。目に見える金だけが彼らにとって優先すべきものである。一方で千尋は金には目にくれずハクの元に行く。ハクという自分にとって大切な人の元に行くのである。
ではここでもう少しこの従業員たちについて言及していきたい。男の従業員はカエルであり女の従業員はナメクジである。彼らにどのような共通点があるだろうか。まず単純に湿気を好むということである。それは湯屋だからということがあげられる。だが果たしてそれだけだろうか。彼らに共通する性質は、そしてまた千尋と比べたときに生物として対照的な性質は変温動物だということである。変温動物というのは体温が状況に応じて変化する動物である。そのことを言い換えるなら変わらない温かさを持たないということである。そうした性質は彼らの姿勢と一致しないだろうか。金に応じてその対応を変える彼らの態度だ。一方で千尋は金に惑わされることなくハクの元に行く。ハクへの思いやりを変わらず持ち続ける。先ほどの言い方に沿わせるならハクへの変わらない温かさを持っている。それが千尋である。言い換えるならば金や目に見える欲望の対象によってその熱を変えるのは動物であり、そうしたものに惑わされることなく思いやりという変わらない温かい思いを持っているのが人間であるということだ。
カエルやナメクジといった湯屋という場で働くものたちはまさに人間らしさを失った卑俗な人間像である。一方で千尋はそれとは対照的な人間といえる人間なのである。