あいみょん『会いに行くのに』歌詞の意味・考察
※1 歌詞引用の場合は「」を用いる。
※2 〈〉は筆者として強調したい言葉に使用。
『会いに行くのに』 歌詞・作詞・作曲 あいみょん
※以下歌詞全文
冷蔵庫の中には 食べ損ねたラブレター
ひとつずつ ひとつずつ 白くなる
赤い小さな箱には 渡しそびれたリング
もう四月 もうひとつ 息を吐く
これが夢だったら 何度も繰り返して君を
何度も分かったふりをして 傷つけない方法を見つけたい
あと何回同じ冬を通り過ぎて 錆びたままの部屋で
君を待つのは寒すぎる 心ももたないよ
ああ 初めてのあの日に戻ったなら
明かりのない街も
愛して 愛を知って 会いに行くのに
零時過ぎた頃には望みなく眠るんだ
数えてる ひとつずつ 記憶を断つ
これは夢でした 頭抱えすぎた僕だから
何度も踏み込んで 転んで 傷つき日を跨ぎ朝になる
あと何回同じ服に袖通して よれたままの裾も
君が隣にいてくれたら 寒さもしのげそう
ああ 始まりは終わりを告げていたの
冷えた手のひらがもう
忘れないで憶えていて 震えているぞ
あんなに近くにいたのに そんなに変わってないのに
やっぱり寒さには弱い もっかい君に触れたい
あと何回同じ冬を通り過ぎて 錆びたままの部屋で
君を待つのは寒すぎる 心ももたないよ
ああ 初めてのあの日に戻ったなら
明かりのない街も
愛して 愛を知って 会いに行くのに
会いに行くのに 会いに行くのに
本記事ではあいみょんの『会いに行くのに』という歌について考察をしていく。初めに歌詞の解釈を行う。その次にMVの映像や音そのものを考察に取り入れてこの曲のさらなる理解を深める。そうした過程を通して最終的には曲全体がどのようなメッセージを伝えているのかを理解していきたい。
ではここから歌詞の考察を行っていく。この曲を聞いて分かることは、この歌が〈恋人に振られた経験をした人(恐らく男)の目線で語られた曲〉だということだ。そう言える根拠となる歌詞を4つほどあげる。まず1つ目「何度も分かったふりをして 傷つけない方法を見つけたい」という歌詞だ。この箇所からは相手を傷つけてしまったことを後悔し、自分の悪い点を反省している様子が伺える。2つ目は「ああ 初めてのあの日に戻ったなら明かりのないあの街も愛して 愛を知って 会いに行くのに」という歌詞だ。ここには、付き合った初めからやり直したい、そしたら今度はちゃんと自分から積極的に行動を起こすのにという心情が述べられている。3つ目は「赤い小さな箱には渡しそびれたリング」という歌詞だ。この歌詞からは、男性(語り手)がプレゼントを渡そうとしていたのに渡せなかった、そうした様子が伺える。4つ目は「君が隣にいてくれたら 寒さもしのげそう」という歌詞だ。これは君が隣にいてくれたら良いのにというメッセージであり、逆に言えば今はいないということだろう。先ほどの3つ目と絡めるなら「渡しそびれたリング」は彼女がいなくなったから渡しそびれたのだと言える。以上4点が〈恋人に振られた経験をした人の目線で語られた曲〉と結論付けた根拠である。これはさすがに「振った側」の視点ではないだろうし、現在交際している恋人の様子でもないだろう。振られた側の後悔や寂しさを述べているはずだ。
今述べたことを前提として、この歌のより具体的な解釈に踏み込んでいきたい。まず考えていきたいのは
【大問1】
〈付き合い始めてから別れるまでのこのカップルの関係性はどのようなものであったか。〉
ということである。この問いについては〈①なぜ付き合うことになったか。〉〈②どのような付き合い方をしていたか。〉〈③どうして別れることになったか。〉という3つの小さな問に答えながら解答を考えていきたい。
まず〈①なぜ付き合うことになったか。〉という点だ。これに端的に解答すれば〈彼女側からの強いアピールがあったから。〉ということだ。そう筆者が言う根拠の中心は「冷蔵庫の中には食べ損ねたラブレター」という歌詞である。このラブレターは男性が女性から貰ったものだろう(※後に述べる②の問に関する考察からも語り手の男性側が書いたものだということは考えにくい)。女性からラブレターを貰ってそれを保管しておいたという状況だ。普通に考えるならば、このラブレターに付き合って欲しい旨が書いてあり男性はそれに対してOKを出した、という流れだろう。このことから分かるのは元々女性の方が男性のことをとても好いていた、ということである。ラブレターを渡すという本気度が伝わる行為からこのことが言える。よって〈彼女側からの強いアピールがあったから〉二人は付き合うことになったのである。
次に〈②どのような付き合い方をしていたか。〉という点である。これも先に解答すれば〈彼女が一方的に彼に尽くしてあげていた。〉というものになる。そう述べる根拠は「錆びたままの部屋で」と「よれたままの裾も」という箇所である。まずは「錆びたままの部屋で」の箇所について述べていく。そもそもなぜ部屋は「錆びた」のか。一般的に錆びが発生するのは手入れを怠るからだろう。自転車のギアなどは〈錆び〉の代表例だが、それは汚れを放っておいたり、雨風に晒したままにしたり、オイルをささなかった場合である。つまるところ手入れをしない場合に起こるのが〈錆び〉だ。それをこの男性の部屋に当てはめれば、この部屋は手入れをされないまま放置された部屋だということだ。それで錆びてしまったのだ。けれどもなぜ手入れがされないのだろうか。この部屋の住人である男性は居るのに。それは彼女が、その手入れを行ってくれていたからではないだろうか。付き合っている当時彼女が彼の部屋のあれこれをやってくれていたからではないだろうか。そう考察する理由として、先ほどの①の問への解答〈彼女側からの強いアピールがあったから。〉があげられる。それはこの女性が男性のことを強く好いていた、ということでもある。そうした女性が彼と付き合えることになったら、いろいろと彼に尽くすようになるというのは無理な推測ではないだろう。また、この女性が彼の家のことを色々とやってあげていたと主張する根拠はもう一つある。この歌は彼女に振られた後いくらか時間が経った時点の男の視点で描かれている。そのことを鑑みれば「錆びたままの部屋で」とは〈彼女がいなくなってそれから錆びたままの部屋〉だと言えないだろうか。彼女がいた時は彼女のおかげで錆びていなかったが、彼女がいなくなったので手入れをする人がおらず錆びてしまった、そんな文脈として読める。そして〈彼女が一方的に彼に尽くしてあげていた。〉と言えるもう1つの根拠がこの段落の前半部で述べた「よれたままの裾も」の箇所である。なぜ「よれたまま」なのだろうか。これもまた男性自身の服なのだから男性がやれば良いはずなのになぜ彼がやらないのか、と言えばやはり女性があれこれ世話を焼いてくれていたからだろう。裾まできちんとアイロンをかける、というのは世話を焼いてくれる女性の姿を想起させるものでもある。以上3点〈彼女が彼のことを大好きだった〉〈彼女がいなくなってから錆びてしまった〉「よれたままの裾」から、付き合っている時には〈彼女が一方的に彼に尽くしてあげていた。〉のだと結論付けたい。
ひとまず〈②どのような付き合い方をしていたか。〉についての結論は出したがこの②の問についてさらに深堀したい。筆者にはこの問に対してもう1つ提出できる回答があるのである。それは〈デートの時は基本的に彼女が男性の家に遊びに来るという形だった〉ということである。そのように言える根拠は「錆びたままの部屋で君を待つのは寒すぎる」の箇所である。まずこの箇所から読み取れるのは、幾らか彼女を待った、ということである。幾らか待ったけれどもこのままでは寒すぎる、そうした男性の様子が読み取れる。ではなぜ男性は探しに行くとか会いにいく、でなく待ったのだろうか。ものすごく単純だが彼女を待っていた理由は、〈彼女がやってくるかもしれないから〉だろう。誰かが来るから待つのだから。したがってこの歌詞からは〈彼女がやってくることを待つ男の姿勢〉が見いだされる。さらにもう一つ触れたいのはサビの箇所の「はじめてのあの日にもどったなら」「会いに行くのに」という歌詞である。これはその語り口から言って〈もう一度最初からやり直せるならこうするのに〉という後悔を述べていよう。逆に言えば、付き合っていた頃にはできなかったことでもある。この「会いに行くのに」の箇所からは付き合っていた当時は男性の方から彼女に会いに行くことはなかった、そんな状態だったことが推察される。ではどうやって彼と彼女は会うのだろうか。答えは単純で、彼女から彼に会いに行くということだ。彼女が彼の家にやってくる、それが彼らの付き合い方なのだ。以上2点「錆びたままの部屋で君を待つ」という受身な彼の姿勢が読み取れる箇所と「会いに行くのに」という後悔の言葉から、さらに言えば先に考察した〈彼女が彼の家のあれこれを世話していた〉という箇所からデートの時はもっぱら〈彼の部屋に彼女が会いに来る〉そういう状況がお決まりだった、そのように結論付けた。
以上で〈②どのような付き合い方をしていたか。〉という問への解答を示した。解答をまとめると〈基本的に彼女が彼の家に遊びに来るという形で、彼女が一方的に彼に尽くしてあげていた〉というものである。
次に③〈どうして別れることになったのか〉という問に答えていきたい。これに端的に答えると〈彼女側の愛想が尽きたから。〉である。それではなぜそう読み取れるかというと「これが夢だったら 何度も繰り返して君を何度も分かったふりをして傷つけない方法を見つけたい」という歌詞を根拠としている。「これが夢だったら」「何度も分かったふりをして傷つけない方法をみつけたい」とある。「夢だったら」とあるならば、現実ではどうだったのだろうか? 無論「傷つけない方法を見つけ」るというあり方とは対照的なものだろう。それはきっと何度も繰り返し、分かったふりもしない、君のことは理解できないということをはっきり主張し、傷つけた、そんなあり方だろう。傷つけない方法を探すことすらせず、躊躇なく繰り返し傷つけたということである。このように、男性側は彼女の愛情や献身的な姿勢にまったく答えようとしなかったことが伺える。そのことから、幾ら尽くしても冷たい男性のあり方に対して〈彼女の愛想が尽きたから〉別れてしまったと言えるのではないだろうか。
以上①~③の小さな各問に答える形で【大問1】〈付き合い始めてから別れるまでのこのカップルの関係性はどのようなものであったか。〉という問への解答をつくってきた。その解答をまとめると〈彼女の方が彼のことをとても好きでラブレターまで渡して付き合うことになった。彼女はデートの時には常に彼の家に行って、あれこれ尽くしてくれていた。しかしそんな彼女の想いを無下にして彼の方では彼女を傷つけるばかりであった。その結果として彼女は愛想を尽かして彼と別れることになった。〉ということである。
こうした一連の流れを踏まえて、さらに考察を深めていく。次の問を大問2とする。
【大問2】
〈「赤い小さな箱には渡しそびれたリング」とあるが、ここからどのような事情があったことが読み取れるか。〉
色々なことが示唆されているように見える一節だが、どのような意味が読み取れるだろうか。この件について3つの問を提示し、それに応える形で【大問2】について答えていきたい。3つの問とは〈①男性はなぜ「リング」を渡そうとしたか(先ほど考察したが、あれほど女性に冷たかったのになぜ、ということ)。〉〈②この「リング」はいつ渡すつもりだったのか。〉〈③なぜ渡しそびれてしまったのか。〉この3点である。
まずは〈①男性はなぜ「リング」を渡そうとしたか。〉である。端的に答えると〈女性のことが好きになったから〉である。「リング」を渡そうとしている時点で好きだという気持ちがあるということは明白だろう。ではなぜそう変わったかのか。分かった振りさえしないで彼女を傷つけ、自分からは会いに行かなかった彼がどうしてリングをプレゼントするほど好きになったのか。その理由をここまで述べて来たことの中から理解していく。なぜ好きになったかと言えば〈彼女の愛情が伝わったから〉である。彼女は自分からラブレターを渡し、毎回彼の家に会いに来てくれ、そして彼のために尽くしてくれていた。そんな愛情や優しさが伝わったということが主な理由だろう(厳密に言えばこの歌詞からはそれくらいしか根拠が読み取れない)。そうして彼の中に彼女のことを大切に思う気持ちが徐々に芽生えていったのではないだろうか。まとめると〈その献身的な姿勢から彼女の愛情が伝わり、彼女のことが好きになったから〉「リング」をあげようとしたのである。
次に〈②この「リング」はいつ渡すつもりだったのか。〉という問いに答えていきたい。先に解答を述べれば〈クリスマス〉だ。なぜかというと、歌詞の中に「渡しそびれたリング もう四月 もうひとつ息を吐く」とあるからだ。この記述から、男性が「四月」より前の時期にこれを渡そうとしていたことが分かる。渡しそびれたあのときから時間が経って「もう四月」になってしまった、そういう文脈で捉えるのが自然だろう。では「四月」より前のいつ頃かと言えば3・2・1・12月の辺りだろう。ただし「もう四月」だから、渡そうと思っていた月は「四月」よりいくらか離れているのではないだろうか。渡そうと思っていた時からあっという間に時が過ぎて「もう四月」になってしまった、こう解釈するのが妥当だろう。そうすると2月、1月、12月、あたりが候補になるだろうか。この月の中で「リング」というプレゼントを男性が女性に送るにふさわしいのは何月だろうか。というと〈クリスマス〉が一番ふさわしいのではないかと筆者は考えたのである。
最後に〈③なぜ渡しそびれてしまったのか。〉という問だ。先に解答を述べると、それは〈彼女がある日を境に彼の家に来なくなったから。〉である。先ほどの【大問1】のところの②の問で述べたが、この二人は基本的に彼女が彼の家に来るという形で会い続けていて彼から彼女には会いに行かない。ということは二人が実際に会う機会、すなわちプレゼントを渡せる機会は彼女が彼の家に会いに来た時のみである。裏返して言えば、彼女が会いに来なければプレゼントを渡せる機会はないのである。したがって、渡しそびれた理由は〈彼女がある日を境に彼の家に来なくなったから〉だと言える。彼女がクリスマスに来ると思っていたからプレゼントを準備していた。けれども彼女は来なかった。そのまま来なくなって気付けば「四月」になった。これが「渡しそびれたリング もう四月」の箇所が示す意味ではないだろうか。ちなみにそう解釈すれば二番の「零時過ぎた頃には望みなく眠るんだ」が、彼女が来てくれることを期待して待っていたが0時過ぎて、ああ今日も来ないんだな、そう感じて眠りにつく男性の様子だということが分かる。
ではここで出て来ることが想定されるある反論を取り上げたい。それは〈ある日別れ話をされて振られただけじゃないの?〉という反論だ。しかしそれでは歌詞と整合性が取れない。別れ話をしてきっちり別れたのであるならば、なぜまだ彼女のためのプレゼントを持っているのか。さらに言えば「あと何回同じ冬を通り過ぎて 錆びたままの部屋で君を待つのは寒すぎる 心ももたないよ」の箇所である。これは、幾らか待ったけれどもこのままでは寒すぎるという意味だと先ほど述べた。幾らか待ったのである。12月(末)から4月までの実質3か月。なぜ別れたのに待ったのだろうか。もしきっちり別れたのなら待たないはずだ。待つ意味はないはずだ。以上の理由から〈ある日別れ話をされて振られただけじゃないの?〉という主張はこの歌詞とは整合性が取れないのである。そういうことではなくて〈彼女がある日を境に彼の家に来なくなったから〉、何の別れの挨拶もなくある日ふと来なくなった、だからこそ彼はまた彼女がやってきてくれるかもしれないと思い、リングを取っておいて彼女がまたいつも通りやってきてくれるのを待っていた、そう解釈するのがこの歌詞に対しては適切ではないだろうか。
以上【大問2】〈「赤い小さな箱には渡しそびれたリング」とあるが、どのような事情があったことが読み取れるか。〉という問の解答を考えてきた。【大問1】の解答をも踏まえた上でここから読み取れることは〈女性の想いが(次第に、漸く)通じて男性の方でも彼女のことを大切に思う気持ちが芽生えた。そして思いのこもったプレゼントをあげようと思ったが、もうその時点で彼女は愛想を尽かしてしまいある日を境(クリスマス前)に彼の家に来なくなった。けれども、彼の方では直接に別れを言われたわけでもなく、また彼女のことを好きになっていたので4月までそのプレゼントを捨てることはできず、彼女がもしかしたら戻ってきてくれるのではないかと思って待っていた。〉ということである。
ではここまでの内容【大問1】【大問2】の解答をまとめて提示したい。
〈彼女の方が彼のことをとても好きでラブレターまで書いて付き合うことになった。彼女はデートの時には常に彼の家に行って、あれこれ尽くしてくれていた。しかしそんな彼女の想いを無下にして彼の方では彼女を傷つけるばかりであった。その結果として彼女は彼への愛情を失っていった。だが一方で彼の方では漸く彼女の想いが通じて彼女への愛情が芽生えた。そうしてクリスマスにプレゼントを贈ろうと思った。しかしその時には彼女の愛情は冷めてしまって、彼女はある日を境に彼の家に来なくなった。男性は彼女がまたやってきてくれることに期待してリングを持って彼女を待っていたが「もう四月」になってしまった。〉これが、ここまでの段階でこの歌詞から読み取れることである。
では次に【大問3】に移る。
【大問3】〈「冷蔵庫の中には 食べ損ねたラブレター ひとつずつ ひとつずつ 白くなる」という歌詞にはどのような意味が込められているか。〉
3つ目の大問としてこの内容について考察していく。この箇所はかなり示唆的かつ意味の取りにくい箇所だろう。この問については〈①「冷蔵庫の中には食べ損ねたラブレター」〉〈②「ひとつずつ ひとつずつ白くなる」〉の2個所に分けて考察していく。
ではまず〈①「冷蔵庫の中には食べ損ねたラブレター」〉の箇所である。そもそも「冷蔵庫の中」の「ラブレター」というのは比喩だろう。ラブレターを冷蔵庫に保管する人などいないのだから。では冷蔵庫は何の比喩か。冷蔵庫とは端的に言って〈冷たい箱〉である。内部に冷気が漂っている箱である。この歌詞の中ではそこに「ラブレター」が置いてある。それならば「冷蔵庫」とは〈男の部屋〉を指しているのではないだろうか。ラブレターが置いてあるのはこの部屋(=箱)だろう。また彼女に対して冷たく接するこの男がいる部屋は冷たい空間だろう。つまり「冷蔵庫」=〈冷たい箱〉=〈男の部屋〉だろう。この男の部屋に彼女から貰った「ラブレター」が置いてある、それは自然過ぎるほど自然な状況だ。では「食べ損ねた」とはどういうことだろう。食べる=内部に入れる=受け入れる、ということだろう。ラブレターには彼女の愛情がこもっている。そう考えるならばラブレターを食べ損ねたとは〈彼女の愛情、その気持ちをきちんと受け入れなかった〉という意味に取るのが妥当ではないだろうか。なぜなら、この男性は彼女が幾ら尽くしても彼女に冷たく接していたからだ。彼は彼女の愛情に応えようとしなかった。そうした姿勢は彼女の愛情をきちんと受け入れなかった彼のあり方を示していないだろうか。
以上〈①「冷蔵庫の中には食べ損ねたラブレター」〉について考察した。この箇所の意味は〈この冷たい空気が流れる自分(男性)の部屋には、きちんと受け入れられなかった彼女の愛情が綴られたラブレターがある〉という意味である。
では次に〈②「ひとつずつ ひとつずつ白くなる」〉の箇所の考察に移る。「白くなるのは」何か? それはラブレターに書かれた文字のことだろう。ただし勿論比喩的な意味で「白くなる」に過ぎない。なぜなら消えるインクで書いたとしても文字は勝手に消えないのだから。ではその比喩はどういう意味か。文字が消える=そこに書かれたものの意味が消える、意味を持たなくなるということであろう。ではラブレターに書かれたものとは何かといえば、彼女から彼への愛情だろう。つまり「ひとつずつ ひとつずつ白くなる」とは〈彼女の愛情がだんだん失われ(冷め)ていく〉ことを意味しているのではないだろうか。ではなぜその気持ちは〈失われ(冷め)ていく〉のだろうか。と言えば、彼女の愛情を彼が受け入れず冷たく接し続けたからである。〈冷たく〉接し続けたから愛情は〈冷める(白くなる=失われていく)〉のである。
以上2か所に分けて考察したがそれらをまとめる形で【大問3】〈「冷蔵庫の中には 食べ損ねたラブレター ひとつずつ ひとつずつ 白くなる」という歌詞にはどのような意味が込められているか。〉という問いに答えたい。この箇所は〈この冷たい(人間のいる)部屋で、受け入れられることのないままにされた彼女の愛情は、彼との付き合いの中で段々と冷めていき、失われていった〉ということだろう。この箇所は【大問1・2】で考察した内容ときちんと重なり合う。この曲が持つ意味を象徴的に表した一節だと言える。
次に【大問4】に移る。
【大問4】
〈「ああ 初めてのあの日に戻ったなら 明かりのない 街も愛して 愛を知って 会いに行くのに」の箇所にはどのような意味がこめられているか。〉
歌詞そのものの考察の最後に上記のサビの箇所を取り上げる。今回は〈①「ああ 初めてのあの日に戻ったなら 明かりのない街も愛して愛を知って」〉と〈②会いに行くのに〉の2個所に分けて考察していく。
2つの小問に答える前提として彼女が来なくなった12月から4月に至るまでの男性の心境がどのようなものだったか、そして4月である〈今〉の彼の心境がどのようなものかを述べたい。語り手の男性は12月には、彼女への愛情を抱き始めていた。しかしながら彼女は来なくなった。そして4月まで待ってもやっぱり来ない、そうした流れで語り手は現在の時点にいる。この12月から4月に至るまでの男性の心境は〈徐々に彼女が本当に戻ってこないことを実感していった〉というものではないだろうか。例えば12月だったら、大晦日には来るだろうと思えるはずである。1月なら、正月には来るだろうと。2月は望み薄だが、バレンタインに来てくれるかもしれないとも思えるだろう。けれども3月にはそんなイベントはないし4月になればもう新年度である。新しい出会いの季節である。したがって12月から4月へと時が移り行く中で〈徐々に彼女が本当に戻ってこないことを実感していった〉のではないだろうか。そう考えるとこの語り手の男性の今いる4月には彼の中にもう彼女はこないのだという強い確信が生まれているはずだ。そしてそんな確信と同時に、別れることになってしまった後悔を強く感じている。さらに言えば後悔を強く感じていることから、彼女のことを自分が大切に思っていることをも感じているだろう。それがこの語り手がいる4月の時点での彼の心境だ。
以上のような前提を踏まえて〈①「ああ 初めてのあの日に戻ったなら 明かりのない街も愛して愛を知って」〉の考察に移る。特に「明かりのない街も愛して愛を知って」の箇所である。「明かりのない街」とはどのように感じられる場所であろうか。端的に言えば寂しい場所ではないだろうか。街に明かりがついていればそこには賑わいが感じられるし、愛着や親しみも感じられるだろう。けれども「明かり」が無いのだからそうした魅力は感じられない、そんな場所が「明かりのない街」だろう。ではなぜこの語り手は「明かりのない街も愛して」いけるのだろうか。この箇所、このシチュエーションにおいて彼はそもそも何のために「街」にやってきたか。無論それは「会いに行くのに」とあるように、彼女に会うためだ。彼女に会うために彼はやって来た。したがってこの街は彼女がいる街である。そしてここに彼女がいるからこそ愛することが出来る、そのようにこの歌詞は読み取れるのではないだろうか。つまり「明かりのない街も愛して愛を知って」というのは〈明かりがないゆえに寂しく、一見して愛着が持てないような場所でも、彼女がいるところだから愛することが出来て、そんな気持ちが愛だということを知って〉という意味ではないだろうか。そうして「会いに行くのに」と続くわけである。
では次に〈②「会いに行くのに」〉の箇所に移る。この歌詞は曲中重要な意味を持っているはずだ。なぜならタイトルにもなり、サビにもなり、ラスサビにおいて最後を締めくくる語として3度も繰り返されているのだから。ではそんな重要な意味を持っていそうな「会いに行くのに」にはどのような意味が込められているのか。まず前提として語り手はこの地点で彼女と別れてしまったという確信と、そうなったことへの後悔を強く感じているということがある。「初めてのあの日に戻ったなら」「会いに行くのに」というところからも彼の後悔の念が込められた言葉だということは分かる。先ほどこの歌詞はこの曲の中で何度も繰り返されていると述べたが、そのことと併せて考えれば、この「会いに行くのに」には彼が持つ後悔の想いがこめられた言葉の中でも最も強い思いのこもった言葉だと言える。言い換えれば、もし初めに戻れるならやり直したいことの最たるものがこの「会いに行く」ということなのだろう。ではこの「会いに行くのに」という言葉に込められた思いとはどのようなものか。なぜ彼が一番やり直したいことが「会いに行く」ことなのか。それは【大問2】考察したことが根拠だろう。男性と付き合っている期間、その初めからずっと彼女は愛情を伝えてきてくれた。彼女の方から告白してくれて、ずっと彼の家に来てくれて、彼女の方から尽くしてくれた。それなのに彼の方は愛情を示してこなかった。そんなあり方が彼女との関係性を終わらせる主な原因だった。そのような【大問2】の内容に加えて、4月現在の彼の心境も先ほど述べた。それは、この男性が彼女との別れを確信し、後悔し、彼女を大切に思っていたことを感じているそのようなものだった。このような背景と現在の心境があるからこそ彼は今「会いに行くのに」と思っているのではないだろうか。彼女は自ら進んで愛情を与えてくれたのに自分からは決して彼女に愛情を示してこなかった、そうして大切な彼女を失ってしまった。今彼女のことを好きなのに、そのことを伝えることもできない。それが彼の今の思いだろう。そんな彼だからこそ〈もし今彼女と出会った初めに戻れるなら、今度は最初から、自分から、彼女に愛を伝えに行くのになあ〉そんな気持ちが「会いに行くのに」という言葉には込められているのではないだろうか。
以上2か所に分けて【大問4】〈「ああ 初めてのあの日に戻ったなら 明かりのない 街も愛して 愛を知って 会いに行くのに」の箇所にはどのような意味がこめられているか。〉を考察してきた。解答をまとめるとこの箇所は(解釈の順番が少し前後するが) 〈彼女はずっと愛情をたくさん示してくれていたのに自分からは彼女に愛情を示さなくて、それで大切な彼女を失ってしまった。だからもし今彼女と出会った初めに戻れるなら、明かりのない寂しい街でもそこに彼女がいるからその場所を愛することが出来て、そんな気持ちが愛だということを知って、今度は最初から、自分から、彼女に愛を伝えに行くのになあ。〉そんな意味がここの歌詞には込められているのではないだろうか。
以上4つの大問を立てて歌詞の考察を述べた、ここからはさらにそれをMVと絡めて考察していく。ここまでの考察において筆者はこの歌詞から〈彼女を大切にできなかった男性の深い後悔〉が読み取れる、端的に言えばそんな解釈をした。けれどもこの曲を聞いてみる(またはMVを視聴する)と、そこまで暗い雰囲気の曲ではないことに気付く。どちらかと言うと爽やかさが感じられる曲だ。そんな曲調から分かる通り、実はここの歌詞に込められた意味は単純に別れた彼女への後悔というものではないのである。ではこの歌詞にはどんな意味が込められているのか。ここからは【大問5】に行く。
【大問5】
〈歌詞の内容をこのMVに沿ってさらに深めていくと、この曲からさらにどのような意味が見出せるか。〉
この問を考えたい。問の意味が分かりにくければ単純に〈歌詞の意味をさらに掘り下げる〉と考えてくれて良い。考察する手掛りとしてMVを用いる、ということに過ぎない。
まず重要なのはこの語り手がいる時点は4月だということだ。歌詞の「もう四月」からもMVの1:21~1:26の箇所の桜の花びらが舞うシーンでもそれは明示されていることだ。その点に加えて歌詞の「君を待つのは寒すぎる 心ももたないよ」という箇所を取り上げる。まず前提として、彼女はもう戻ってこないことをこの男性は確信しているということだ。そうした心境を踏まえてこの部分の歌詞を解釈するなら〈もう戻ってこないことが分かっているのに、君を待ち続けるは辛すぎる〉ということだろう。好きな人が戻ってこないことを確信するということは強い悲しみを感じることであるはずだ。そしてそのままで待つということは〈強い悲しみを感じたままで居続ける〉ということになる。それは「心ももたない」のだろう。では「心ももたない」からどうするのだろうか? 死ぬのだろうか? 無論そういうことではなく、彼は〈待つのをやめる〉のだ。それは必然的な帰結のように思える。もう別れることが確定したのだからもう待つことは無駄である。なら〈待つのをやめる〉のが自然だろう。
今述べたことを踏まえてさらに曲の歌詞全体の意味の理解を深めたい。この歌詞は全体としては後悔を歌っている。言い換えればこうすれば良かったという〈後悔を吐き出している〉のである。それこそ「傷つけない方法をみつけたい」とか「会いに行くのに」等の歌詞からよく分かることだ。彼女がもう来ないことを分かって〈後悔を吐き出して〉〈待つのをやめる〉のである。それはどのような行動に繋がっているかと言えば〈未練を断ち切って次に進むこと〉に繋がっているのではないだろうか。筆者がそのように言う理由は先ほどの〈後悔を吐き出して〉〈待つのをやめる〉ということに加えてもう一つある。それはこの曲の語り手がいる時点が4月であるということだ。4月は新年度だ。新しい出会いがあったり、全く新しい環境の中で生活を初めたりする季節だ。それは〈新たな一歩を踏み出す季節〉だとも言えるのではないだろうか。だからこそ4月になって、今ある〈後悔を吐き出して〉、来るはずのない彼女を〈待つのをやめる〉、そうして〈新たな一歩を踏み出す季節〉を迎える。この曲にはそうした過程を通して〈未練を断ち切って次に進むこと〉へ向かう語り手の姿が描かれているのだと思う。
以上のことを前提とすればMVに描かれている内容の理解も深まっていくだろう。このMVの内容を端的に述べれば、近所をふらふら散歩している、というような内容ではないだろうか(電車に乗っているシーンも、ある種の近所をふらつく、という行為の範疇に含める)。少し詳しく言うと、家から外に出かけてふらふらと散歩しているのである。それはどのようなことを意味しているのだろうか。この曲の内容とどのような繋がりを持っているだろうか。それはここまで考察した内容から導き出せる。彼には後悔がある。それは自分から会いに行かなかった、というものである。彼はずっと自分の部屋の中にいて、付き合っている時も、そして4月に至るまで彼女を待つだけだった。けれどもそうした自分のあり方を悔いて、後悔を吐き出して〈未練を断ち切って次に進むこと〉へと向かう歌詞だとここまでで述べた。だからこそ彼は家から外に出たのではないだろうか。言い換えれば彼のそんな姿を表現したのがこの〈外に出かけている〉MVの描写なのではないだろうか。彼女への後悔を目一杯吐き出して、そのことに一区切りをつけて、ただ待つだけだった自分、部屋に閉じこもっていた冷たい自分、そんな自分を変えようと思って一歩踏み出す。自分から愛情を伝えに行く(部屋から出る)ことの出来るあり方へと変化していく。そんな姿を表現したのがこのMVの内容なのではないだろうか。
そうした全体の構成に対する考察に加えて4:32~4:46では「会いに行くのに」の歌詞を3度続けて歌うシーンについて述べたい。そこではあいみょんが正面(こちら)を向いて歌う。それはつまり、真っすぐ前を向いて目一杯後悔を吐き出している、ということを表していないか。この場面は彼の最も強い思いの込められた言葉「会いに行くのに」が3度繰り返されているのだから。そして4:55~5:00では一旦はうつむく。ここは吐き出した後悔の重さを感じているのではないだろうか。口に出すということはそれを明確に感じているということだから。けれども5:00~5:05では顔を上げて、上を向くのである。この場面は特にこの歌詞の語り手が後悔を吐き出し、そうして過去に一区切りつけて前に進もうとする、上を向こうとする、そんな心情が表現されているように思える。そして5:06~は彼(あいみょん)の目の前に街の風景が広がっている、そんなシーンが続いて、映像が終わる。この一連の流れは、彼が後悔を吐き出して、前を向いて、そうして今彼の目にはいつもとは違った、いつもよりも広がった外の新しい世界が映っている、そんなことを意味しているはずだ。
以上を踏まえて【大問5】〈歌詞の意味をこのMVに沿ってさらに深めていくと、この曲からさらにどのような意味が見出せるか〉ということに答える。この曲には〈ただ愛情を待つばかりの冷たい人間だった彼が自分の過ちを悔い、その思いを目一杯吐き出して過去のことに一区切りつけ、新しい一歩を踏み出す。待つのではなく自分から行動を起こしていくあり方に変わる。そうして少し広がった新しい世界に踏み出していく。〉そのようなことが表現されているのではないだろうか。
では考察の最期の内容として、この曲の中で聞こえる特徴的な音について言及したい。それは、断続的に聞こえてくる木琴(?)の音である(違っていたら大変申し訳ないし何の楽器か明確に分かる人はご教授いただければ幸いです)。この音に関する問が【大問6】となる。
【大問6】
〈断続的に聞こえる木琴の音からどのような意味が読み取れるか。〉
まずそもそもの前提として〈この音は何を表しているか。〉という問に答えたい。解答は2つある。1つ目が〈氷(または雪)が溶けて水が滴り落ちる音〉である。2つ目〈涙が滴り落ちる音〉だ。次にそれぞれなぜそのように言えるかを示す。まず。1つ目の〈氷(または雪)が溶けて水が滴り落ちる音〉だ。そもそもこの音が〈水が滴り落ちる音〉というのは良いだろう。ではなぜ〈氷が溶け〉た音と言えるのかというところが問題になる。筆者がこれを〈氷が溶け〉た音と言うのは、この歌詞が12月から4月に至る期間のことを歌ったものだからだ。つまり冬から春に向かう期間のことを歌ったものだ。この期間は次第に暖かくなり氷が溶けて春がやってくる期間だろう。だからこそ筆者はこの水の音を〈氷(または雪)が溶けて水が滴り落ちる音〉と推測した。次に2つ目の〈涙が滴り落ちる音〉と言う理由について述べる。まず〈水が滴り落ちる〉様子から涙を連想するのは無理やりなことではないだろう。ではこの曲と〈涙〉はどのような繋がりをもっているかと言えば、これは語り手の彼が流す後悔の涙だろう。なぜならこの歌は語り手が後悔を目一杯口にする歌だからだ。そこからこの音は〈涙が滴り落ちる音〉だと推測した。
木琴の音はこの二つ〈氷(または雪)が溶けて水が滴り落ちる音〉〈涙が滴り落ちる音〉を表現していると述べた。ではそれを踏まえた上でこの音からどのような意味が読み取れるかを考えたい。先程も述べたが、この歌は冬から春に至る期間のことを歌ったものだということだ。その期間の中で、彼女がもうこの家に来ることがないことを彼は実感し後悔の念を深める。そうした思いが深まる過程は自分が彼女を大切に思っていることをより強く実感していく過程でもあろう。つまり冬から春に至る(彼女との別れを実感する)中で、自分が彼女のことを好きだということを徐々に徐々に強く感じるようになっていくのである。端的に言い換えると、冷たかった心が徐々にあたたかさを持つようになっていくということだ。そうして、現在時である4月においては自分が彼女を好きだということを最も強く感じながら、そんな彼女を大切にできなかった後悔を目一杯吐き出し涙している、そうした流れがこの曲から読み取れる。そのような彼女を思うあたたかな気持ちがより高まり涙するという流れは、冬から春へと季節が移り行く中で(大まかではあるが)次第に世界が暖かくなり、春には〈氷(または雪)が溶けて水が滴り落ちる〉情景と重なり合う。つまり、春が来て氷が溶けて水が滴る情景と、心のあたたかさが高まり涙する彼の姿との重なりを示唆する音としてこの木琴の音は存在しているのではないだろうか。
ではこの彼の姿と冬から春へと至る自然の変化を重ね合わせることでどのような意味が読み取れるのだろうか。それは彼にとっての〈冬〉が終わり〈春〉がやって来たことを示しているのではないだろうか。暗く冷たく閉鎖的だった彼が、自分の内にある彼女への思いを実感し、人を大切にすることを知って、新しい一歩を踏み出す。そうしてあたたかな世界の中に向かっていく。この音は、そのような意味の奥行をこの曲に与えているのではないだろうか。
以上のことを踏まえて【大問6】〈断続的に聞こえる木琴の音からどのような意味が読み取れるか。〉に答えると〈彼が次第に心のあたたかさを取り戻し、後悔の涙を流す、そうした過程を経て新しい一歩を踏み出して、あたたかい世界の中へと向かっていく、そんな意味が読み取れる。〉というものだ。
ここまで【大問1~6】に答える形でこの曲が持つ意味について考察を深めて来た。全てをまとめるならば、〈彼女の方が彼のことをとても好きでラブレター貰って付き合うことになった。彼女はデートの時には常に彼の家に行って、あれこれ尽くしてくれていた。しかしそんな彼女の想いを無下にして彼の方では彼女を傷つけるばかりであった。その結果として彼女は彼への愛情を失っていった。だが一方で彼の方では漸く彼女の想いが通じて彼女への愛情が芽生えた。そうしてクリスマスにプレゼントを贈ろうと思った。しかし彼に受け入れられることの無かった彼女の愛情は既に冷めてしまって、彼女はある日を境に彼の家に来なくなった。男性は彼女がまたやってきてくれることに期待してリングを捨てずに彼女を待っていたが4月になってしまった。彼はこの時に彼女がもう決して戻ってこないことを確信した。そうして彼は後悔する。彼女はずっと愛情をたくさん示してくれていたのに自分からは彼女に愛情を示さなくて、それで大切な彼女を失ってしまった。だから彼はもし今彼女と出会った初めに戻れるなら、そこが寂しい街でもそこに彼女がいるからその場所を愛することが出来て、そんな気持ちが愛だということを知って、今度は最初から、自分から、彼女に愛を伝えに行くのになあ、そんな風に思う。そんな思いを彼は「会いに行くのに」という言葉として吐き出す。ただ愛情を待つばかりの冷たい人間だった彼は自分の過ちを悔いると同時に心のあたたかさを取り戻し、その思いを目一杯吐き出して涙し、過去のことに一区切りつける。そうして待つのではなく自分から行動を起こしていくあり方に変わろうと思う。彼は新しい一歩を踏み出して、あたたかい世界の中へと向かっていく。〉それが、この曲全体から読み取れる内容だろう。
最後に、本当にごく簡潔にまとめるならこの歌には〈人が人として大きく成長する価値ある瞬間〉が描かれているのだと思う。
果てしなきスカーレット考察|なぜハムレットなのか?
タイトルとして書いたことをテーマに『果てしなきスカーレット』の短い考察をしていく。
映画『果てしなきスカーレット』の舞台(の一部)は16世紀末のデンマークの王族が住む城であり、そこに登場する人々の名は「クローディアス」や「ガートルード」「ローゼンクランツ」「ギルデンスターン」等々といったものである。そうした舞台設定や登場人物の名前からして今作の設定がシェイクスピアの『ハムレット』を下敷きにしていることは明白だろう。そこで疑問なのが〈『ハムレット』を下敷きにしたことにどのような意味が込められているのか〉ということである。
まず初めに、スカーレットの立ち位置について確認したい。スカーレットは作中アムレット(デンマークの王)の娘という立場である。シェイクスピア原作の『ハムレット』と重ねるなら彼女はハムレット王子の位置にいるということだ。つまり、スカーレットは『果てしなきスカーレット』において主人公であることは無論の事だが、原作『ハムレット』と重ねて見た場合にも主人公としての立ち位置にいるということだ。
次に物語を読む際の基本的なスタンスについて確認しておきたい(これは恐らく描く側の基本的なスタンスでもあると思われるのだが)。私見ではあるが、基本的に読者・視聴者は作中の主人公に感情移入してその物語に入り込む。言い換えると主人公と自分を重ね合わせてその物語世界を味わう場合が多いのではないかということだ。また作り手も、読者に特に共感して欲しい存在・読者と共にあって欲しい存在として自作の主人公を設定してるのではないだろうか。端的にまとめると、主人公=私たちという図式がある程度は成り立つのではないか。少し別の言い方をすれば〈私たちは様々な物語の主人公のように、日々試練を乗り越え成長しながらこの世界を生きている〉というような捉え方が、私たちと物語の間に存在しているということである。
最後にシェイクスピアという作家と『ハムレット』という作品について確認したい。シェイクスピアという作家は文学界において「最も偉大な作家の一人」と評して差支えないところがある。甚だ粗雑に言えばシェイクスピアは世界一の作家であるということだ。そして『ハムレット』は彼の代表作であり最も有名な作品である。再び甚だ粗雑に言えば『ハムレット』は世界一の物語であるということだ。ここではそのことを確認しておく。
では以上3点のことを前提にして〈『ハムレット』を下敷きにしたことにどのような意味が込められているのか〉という問の解答に迫りたい。
端的に言えば、私たちはスカーレットのような存在だ、ということだ。これは〈スカーレット=(今作の)主人公=私たち〉というだけの意味ではない。スカーレットはハムレット王子の立ち位置であるということをも含んだ意味で述べている。どういうことかと言うと〈スカーレット=(今作の)主人公=『ハムレット』の主人公=私たち〉ということである。焦点を絞ると〈『ハムレット』の主人公=私たち〉であるとも言えるのである。ここでシェイクスピアと『ハムレット』という作品の評価を思い返して欲しい。『ハムレット』は(大変ざっくりと言って)世界一の物語である。そして〈『ハムレット』の主人公=私たち〉である。したがって、私たちはそれぞれが世界一の物語の主人公である、ということになりはしないだろうか。そしてシェイクスピアは(大変ざっくり)世界一の作家である。つまり、私たち一人一人は〈世界一の作家が作った世界一の物語の主人公である〉と言えるのではないかということだ。
作者が今回〈スカーレット〉を『ハムレット』の設定に、それもハムレット王子(主人公の)位置に落とし込んだのは以上のような意味が込められているかと思う。
付け加えるならば、作品の結末ではスカーレットはデンマークの王となり、国を治める立場になる。もしかしたら「私は別に王族でも何でもない一国民だ。そんな立場になんか一生ならない。スカーレットとは重ならない。」と反論する人もいるかもしれない。けれどもそういうことではなくて、「王」という設定が言いたいのは〈あなたの住む世界の中心はあなただ〉ということではないか。詳しく言えば〈あなたはあなたの世界の唯一の中心である存在で、その世界はあなたが中心となって動かしていくものだ〉ということである。
繰り返しになるが、私たちはそれぞれ世界一の物語の主人公である、そしてその物語は私たちこそが中心となって動かし、作り上げていく。そうしたメッセージを、『ハムレット』を下敷きにしたこの作品は伝えているように思える。
『千と千尋の神隠し』考察――銭婆の家を出てからラストまで――
※1 登場人物の名前や作中独自の語句が頻出する場合「」は省略。
※2「」は固有名詞または引用時に使用。
※3〈〉セリフが曖昧な場合の作品からの引用時に使用。
※4 “”は筆者が強調したい言葉において使用。
本稿においては、千尋が銭婆の家を出てから映画のラストに至るまでを考察していく。この辺りのシーンは非常に重要な意味合いを持つものが多い。なるべく丁寧に見ていければと思う。
千尋は銭婆の家を出てハクの背の上に乗って空を飛んでいく。その時に彼女は自分が昔溺れたときの話をし、その中で自分が溺れた川が「コハク川」という名前だったことを告げる。その途端にハクからウロコのようなものが剥がれ落ちて、彼は人の姿となり、自分の名前は「ニギハヤミコハクヌシ」だということを千尋に伝える。まずこのシーンはどのようなことを意味するのだろうか。龍というのは確かに神聖な生き物ではあるが、あくまで動物に近い存在である。ハクは、そうした動物に近い状態から人間の姿に変化した。そしてそのきっかけは、自分の名前の一片を千尋に伝えてもらったということにある。千尋の記憶のおかげで動物から人へ、正確には神としての自分を取り戻したということである。このことが示すのは、神という存在はそれだけでは存在できないということである。ハクが穴に落ちたときにハクを救ったのは千尋の記憶だった。今回もまた千尋が名前を呼んだからこそ、ハクは神たる自分を取り戻すことができた。神というものは、人間の側がその存在を意識して感じることが出来てこそ存在できるものなのである。そしてまた先の記事では、目に見えないものを感じる力が人間を人間たらしめるものだと繰り返し書いた。倫理観や人と人との絆や自分らしさなどがそれにあたる。それに加えてもう一つ、神という存在を感じる力があげられる。勿論宗教的な意味の神を指しているわけではない。ここでいう“神”の観念については次の段で説明したい。
千尋はその後ハクと手と手を取り「コハクが私を助けてくれたのね、うれしい」と言う。そう話す千尋の眼からは大粒の涙が流れる。ただし大粒の涙が流れるという見方だけでは不十分である。このとき千尋の涙は上に流れるのである。涙が上に上がっていくのである。千尋が流すこの涙がうれし涙であることは言うまでもない。ただしこのうれし涙は“浮かび上がる”ほどのうれし涙なのである。ではなぜ千尋はこれほど嬉しいのだろうか。そのことは子供の時に川で溺れていた自分をハクが助けてくれていた、そのことを千尋が思い出したことと関係している。ただ、自分を助けてくれていたのが実はハクだったという説明だけでは、それほど嬉しいということの理由としては不十分だろう。そもそもこの湯屋において、ハクは千尋に対してどのように接してくれていただろうか。彼は出会ったはじめから千尋にやさしく、彼女の手助けをしたり励ましたりしてくれていた。彼女の支えになってくれていたのである。異世界に入り込み、千尋の両親が豚になってしまい孤独になり、誰も助けてくれる人がいない、そんなときでもハクは味方でいてくれたのである。そしてそのことは現在だけでなく昔もそうだった。自分がいつもいた現実世界において、その過去においてもそうだったのである。つまりハクは今も昔も千尋を守ってくれていたのである。どうしようもなく大変な時には、たとえどんなところにいても、ハクという存在が昔も今も彼女を支え助けてくれていたことに気付いた。だから涙が浮かぶほど嬉しいのである。神に代表されるような普遍的に私たちを見守り助けてくれる存在、こうした存在を感じることが出来るのは我々が持つべき大切な人間らしさだと思う。だからこそ次のような場面が続くのではないか。その次の場面というのは千尋とハクが手をつないで並んで空を飛んでいくシーンである。そういう目に見えない存在を感じ、手と手を取り合っていけば空だって飛べる、つまりどんなことでもできる。そういうシーンである。
その後千尋とハクは湯屋の橋の手前に降り立つ。そして試験をされることになるのだが、このとき湯婆婆の元に千尋は真っすぐに向かう。“真っすぐ”というのはハクの方を全く見ないでということである。物語の初めに豚小屋に行ったときにはハクに対して確認が必要であったが、今回はその必要はないのである。自分が千尋であることを銭婆の家ではっきりと確認し、ハクの存在もこれまで以上にしっかりと感じることができるからだ。換言すれば、目には見えない大切なモノのことがはっきりと分かるようになったからだ。千尋は千尋であり、千ではない。千という無機質な歯車からは遠く隔たった存在である。だからこそ千尋は、湯屋の社長としての「湯婆婆」ではなく「おばあちゃん」と呼ぶのである。そして彼女は、並べられた豚を見て〈この中にはいない〉という答えを出す。その結果契約書は無効となる。このことは、千尋が千尋であるということ、つまり目に見えないつながりを感じる力・人間らしさをきちんと持っていたということを表す。また千尋が千尋であるのだから、千として契約した書類は無効だということである。
その後千尋は、湯屋の皆から祝福されて現実の世界への道を帰っていくのだが、この時ハクに〈振り向いてはいけない〉と言われる。このことはどのような意味を持っているだろうか。まずはこのシチュエーションを確認したい。先ほど“皆から祝福されて”と述べたように、彼女は湯屋で働きながら皆に認められた。湯屋の皆と良い関係を作れたのだ。しかしながらその湯屋から彼女はもう出ていかなければならない。勿論それはとても良いことなのだが。ここで起きていることは、自分にとって居心地の良い環境から移るということである。さてこのようなこととほぼ同じ状況が作中の初めにもあったことを思い出してもらいたい。それは冒頭の引っ越しの場面である。この引っ越しの場面において、千尋は転校の際に友人からお別れのカードを貰っていること、また引っ越しに対して不満が多いことから、彼女にとって前の学校の居心地が良かったことが伺える。しかしそんな居心地の良い空間から彼女は移らなければならなくなる。物語の終わりでこの状況はリフレインされるのである。こうしたリフレインの構図を受けて、物語の終わりと重ね合わせたときに、初めの引っ越しの場面において重要性を持って現れるやり取りがある。それが「お花」についてのやり取りである。〈お花をずっと握りしめていたせい〉で千尋は花を萎れさせてしまう。この花は、千尋が転校する際に前の学校の友人たちから贈られたお別れの花である。花とはそもそも美しいものだ。加えてこの花は前の学校と密接なつながりを持つ。そう考えるとこの花は、前の学校での美しい思い出を象徴しているのではないだろうか。それを〈握りしめていたら萎れてしまう〉というのは、前の美しい思い出にいつまでも縋り付いていたらその思い出は色あせてしまう、ということを意味しているのではないだろうか。未来を拒絶するようなそんな過去への執着は決して好ましいものではないだろう。思い出は思い出すままにしておくべきものであり、意固地に縋り付くものではない。こうしたことを踏まえるならば、同じシチュエーションにおけるハクの「振り向かないで」ということの意味も明白だと思う。居心地の良い過去に縋り付かないで前を向いてということだ。またその後の場面でハクに「また会える? 」と千尋は問い、ハクは〈きっとまたどこかで会える〉と言う。この返事の意味は、おかっぱの少年の姿をしたハクと現実世界で実際に再会するということではない。ハクという目に見えない存在の支えを感じることがきっとあるだろうという意味である。それはいつ訪れるか分からない。けれどそうした目に見えない存在を千尋ははっきりと感じることが出来る。だからこそ〈きっとまたどこかで〉なのである。
そして再びトンネルを通って現実の世界に千尋は戻っていく。トンネルを抜けた後、トンネルの方を千尋は見つめて、それから両親の車の元へ向かう。そうして物語は閉じられていく。この場面にはどのような意味が込められているだろうか。まず初めに注目したいのがトンネルを通るシーンである。このシーンの映像は、物語の冒頭のトンネルをくぐる映像と全く同じものが使われている。同じ構図などではなく完全に同じものなのである。またトンネルを抜けた後は、千尋がいま通ってきたそのトンネルを見つめる様子が映される。その千尋の頭には銭婆から貰った紫の髪飾りがついている。そして両親の元に向かう時にその髪飾りがきらりと光り、千尋は画面から去るのである。先のトンネルのシーンはこのことと併せて考えたい。トンネルとは違った世界をつなぐ場所である。あっちという世界とこっちという世界をつなぐのがトンネルである。つまりトンネルをくぐるというのは大きな環境の変化の過程にいるということだ。それは例えば転校などがその例として挙げられるだろう。もしくは就職するとき・中学から高校に上がる時・大学にあがるときだ。こうした大きな環境の変化にさらされる時、まるで振り出しに戻ったかのような感覚にならないだろうか。今まで積み上げてきた人間関係やそこで馴染んできたものが一旦リセットさせる、そんな感覚に陥らないだろうか。中学生にしろ高校生にしろ“3年生”から“1年生”になるのである。それはまた湯屋から現実世界に移る千尋にも同じことが言えるのではないだろうか。こうした大きな環境の変化にさらされる時、人は千尋の様におびえ、まるで“はじめ”に戻ったかのようになる。この繰り返されるトンネルのシーンはそのことを表している。では千尋は依然と全く同じだろうか。そうではない。髪飾りは残っている。その髪飾りは銭婆に貰ったものだ。銭婆は「お守り、みんなで紡いだ糸を編みこんであるからね」といって千尋に渡す。皆で紡いだ糸とは何だろうか。坊ネズミ・ハエドリ・カオナシは電車に乗って千尋と共に旅をしてきた。そんな彼らが紡いだ糸とは“絆”と呼ぶべきものではないだろうか。彼らが旅によって紡いできた絆、目に見えないつながりが彼らの間にできたことをこの髪飾りは象徴している。そんな目に見えない絆の証だからこそ、豚を見分けるという、姿かたちが違っていても見えない家族のつながりが分かるかを確かめる試験の“お守り”になるのではないだろうか。そしてこの場面において千尋に残ったその髪飾りは”例え大きく環境が変わってもそうして培った目に見えない絆は残り続ける”そういうことを意味しているのである。そしてきらりと光るということは、全く知らない環境の中で過去自分が紡いできた絆が進むべき道を示してくれる光になってくれる、そんなこと示しているのではないだろうか。
以上先のいくつかの記事も含めて『千と千尋の神隠し』について述べてきた。この物語においてテーマとなっているのは人間にとって大切な目に見えない何かである。特にその中でクローズアップされていたのが自分らしさ・倫理観・思いやり・人と人との絆・神様である。目に見えない絆は特に触れなかったが湯婆婆にも試されていた。そしてこうした目に見えない大切な何かを奪われうる湯屋という場所で、千尋はそんな人間にとって大切なものを失うことなく過ごすことが出来たのである。またそれだけでなくハクに助けられまた助けることを通して今まで以上に目に見えないつながりを感じることが出来るようになったのである。我々にとって大切なモノは目に見えない。それはとあるキツネが言っている通りだ。そうした目に見えないものを感じるのは、私たちの心だろう。内側だろう。大切なモノはどこか外部にモノとして存在するのでなく、私たちの胸の内に感じられる。私たちが感じるべき大切なモノは「胸のどこか奥で」私たちを「呼んでいる」のである。
あいみょん『今夜このまま』歌詞の考察・解釈
※1 歌詞引用の場合は前後一行空行かつ本文二字下げ、または「」を用いる。
※2 “”は筆者として強調したい言葉に使用。
『今夜このまま』 歌詞・作詞・作曲 あいみょん
※以下歌詞全文
苦いようで甘いようなこの泡に くぐらせる想いが弾ける
体は言う事を聞かない 「いかないで」って 走ってゆければいいのに
広いようで狭いようなこの場所は 言いたい事も喉に詰まる
体が帰りたいと嘆く 「いかないで」って 叫んでくれる人がいればなぁ
抜け出せない 抜けきれない よくある話じゃ終われない
簡単に冷める気もないから とりあえずアレ下さい
消えない想いは 軽く火照らせて飛ばして 指先から始まる何かに期待して
泳いでく 溺れてく 今夜はこのまま 泡の中で眠れたらなぁ
だんだん息もできなくなって 心の壁も穴だらけで
制御不能 結構不幸? 自暴自棄 です。
そんなに多くはいらないから 幸せの横棒ひとつくらいで
満たされたい 満たしてみたい 乱されたい 会いたい いつかの誰かに
やるせない やりきれない よくある話じゃ終われない
簡単に辞める気もないから とりあえずアレ下さい
言えない想いは 軽く飲み込んで 隠しちゃって 鼻の先に取り付いた本音に油断して
抱かれてく 騙されてく 今夜の夜風に 吹かれながら 揺れながら
ねぇ もう 帰ろう 帰ろう 影も もう ねぇ 薄くなって
結局 味のない 味気のない 夜が眠る
癒えない想いが 加速するばかりなんだ 止められない
放たれてく 夜になる 私はこのまま
消えない想いは 軽く火照らせて飛ばして 指先から始まる何かに期待して
泳いでく 溺れてく 今夜はこのまま 泡の中で眠れたらなぁ
誰かの腕の中で 甘い夢を見ながら 眠れたらなぁ
本稿においては『今夜このまま』の歌詞を解釈していく。まずは以下に歌のはじめの歌詞を引用する。
苦いようで甘いようなこの泡に くぐらせる想いが弾ける
体は言う事を聞かない 「いかないで」って 走ってゆければいいのに
広いようで狭いようなこの場所は 言いたい事も喉に詰まる
体が帰りたいと嘆く 「いかないで」って 叫んでくれる人がいればなぁ
特に注意したいのは「『いかないで』って 走ってゆければいいのに」と「『いかないで』って 叫んでくれる人がいればなあ」である。順番が前後するが〈「いかないで」と叫んでくれる人〉とはどのような人だろうか。それはきっと語り手のことを強く思ってくれている人ではないだろうか。語り手のことに執着している人、語り手に対して強い思いを持ってくれている人のことではないだろうか。ではそれに対して語り手が〈「いかないで」といって走ってゆく〉というのはどういうことを表しているだろうか。語り手が「いかないで」と思うということは、先ほどとは反対に語り手が誰かを強く思っていることを示す。誰かに対して強い思いを抱いていることを表す。つまり特定の誰かを強く思って追いかけられれば良いのに、というのがこの歌詞の意味するところであろう。このようなことを踏まえると、この語り手は自分が今熱意をもって好きだといえる人もおらず、また自分のことを熱意を持って好きだといってくれる人もいないという状態にあるといえる。
では次の歌詞の考察に入っていきたい。この歌詞の語り手の置かれている立場をより明確にするために、順番は前後するのだが2番の歌詞を取り上げたい。以下の歌詞である。
そんなに多くはいらないから 幸せの横棒ひとつくらいで
満たされたい 満たしてみたい 乱されたい 会いたい いつかの誰かに
幸せの横棒一つと言うのは、“辛い”という字に横棒を一本足せば”幸”という字になる”という言葉遊びに由来するものだろう。すなわち辛いという状態もほんの少しのきっかけで幸せに変わりうるということである。それを前提に読み解くならば、今この語り手は何か辛い思いをしているということだ。そしてそれを何かのきっかけで変えたいと思っているということだ。そのきっかけが「いつかの誰かに」会うということである。「幸せの横棒」を足してくれる「いつかの誰か」とは誰だろうか。それはまだ見ぬ“運命の相手”というものではないだろうか。自分の辛さを幸せに変えてくれる相手、満たしてくれる、自分にピッタリはまる相手であるがゆえに満たすことの出来る相手、自分がドキドキする、乱される相手、それはすなわち運命の相手ではないだろうか。このようなことを元に今の語り手が置かれている状況、語り手の思いを考えてみよう。この語り手は端的に言えば運命の相手を探しているのである。それは先ほど考察した一番の歌詞からも見て取れると思う。また同時にそうした運命の相手が見つからなくてつらく苦しい思いをしているのである。
上記のことを踏まえた上で再び一番の歌詞から考察していきたいと思う。一番の冒頭「『いかないで』って 叫んでくれる人がいればなぁ」の後の歌詞は以下の様に続く。
抜け出せない 抜けきれない よくある話じゃ終われない
簡単に冷める気もないから とりあえずアレ下さい
「抜け出せない 抜けきれない」というのは無論この現状のことだろう。では次の「良くある話じゃ終われない」という一節はどういうことだろう。「良くある話」とは運命の相手が見つからないという話だろう。運命の相手が見つからないという状況から抜け出せない、それは良くある話だということだ。誰にとっても運命の相手は簡単に見つかるものではない。しかしこの語り手は「よくある話じゃ終われない」と言っている。そう簡単に諦めきれないのである。そう易々と運命の相手探しをやめる気はないということである。またそれは次の「簡単に冷める気もない」という箇所にも表れている。加えて最後の「とりあえずアレ」というのがアルコール類(恐らくはビール)だというのはその他のブログで触れられている通りだと思う。
では次のサビはどのような意味を持っているだろうか。
消えない想いは 軽く火照らせて飛ばして 指先から始まる何かに期待して
泳いでく 溺れてく 今夜はこのまま 泡の中で眠れたらなぁ
冒頭「消えない想い」というのは先ほど述べた通り運命の相手を見つけたいという思いだろう。「指先から始まる何かに期待して」というのはどのような意味だろうか。例えば、あるお店で見知らぬ男女が同じ商品に手を伸ばして手と手が触れあう、という運命的な出会いをする場面が良くフィクションで見られると思う。「指先から始まる何かに期待して」というのは、今あげた例のような運命的な始まりに期待してということだろう。ただそんな思いを抱きつつも「今夜はこのまま 泡の中で眠れたら」と語り手は述べている。語り手は相手が見つからないことに対して辛い思いをして傷ついている。そのような気持ちをアルコールでごまかしているのである。正確にはそんな辛い気持ちをアルコールで一時癒しているのである。アルコールの中で一時的な安らぎを得られたらなあ、それがこの箇所の意味することではないだろうか。
次は二番の歌詞に入っていく。二番出だしは以下のような内容である。
だんだん息もできなくなって 心の壁も穴だらけで
制御不能 結構不幸? 自暴自棄 です
これは端的に説明するなら傷ついた心の告白だろう。運命の相手を探す過程で様々な男と出会うだろうが、語り手には現在そんな相手は見つかっていない。だからそうした出会いは失敗に終わったということである。そうした失敗を重ね続けたということである。となればこの歌詞のような心境になるのも不思議ではないだろう。
では次に二番のサビに入っていこう。
言えない想いは 軽く飲み込んで 隠しちゃって
鼻の先に取り付いた本音に油断して
抱かれてく 騙されてく 今夜の夜風に 吹かれながら 揺れながら
この箇所は一見したところでは意味がとりにくいように思えるがどうだろうか。「抱かれてく」とあるところは単純に男の人にということだろう。ただし「抱かれ」るを性的な意味にとるのは早合点している。単純に男の人と触れ合うくらいのニュアンスでとらえるのが適切だろう。なぜなら「夜風に 吹かれ」ているのだから。ではこの相手は運命の人なのだろうか。もちろんそうではない。運命の人が見つかったということが伺える歌詞は全編を通して存在しない。以上のことを踏まえてこのサビについて考えていきたい。「言えない想い」とは“あなたは運命の相手ではない”という想いではないだろうか。だからそれを「軽く飲み込んで隠」すのである。次の「鼻の先に取りついた」は“ちょっとした”ということである。本音は本音だけれども、自分にとって大事ではない些細な本音ということだ。そうした些細な本音というのはどのようなものかと言えば、“少し癒されたい”ということではないだろうか。傷ついた心を少し誰かに癒してほしいそんな「本音に油断して」男性に「抱かれてく」のではないだろうか。だからこそ「夜風」すなわち人の気持ちを惑わせる夜の風に「吹かれて」影響されて心が「揺れ」ていくと歌詞が続いていくのである。
前段で説明したような思いが綴られ、その後は
ねぇ もう 帰ろう 帰ろう 影も もう ねぇ 薄くなって
結局 味のない 味気のない 夜が眠る
と続いていく。「帰ろう」というのは運命の相手でないのだからもう帰りたいということである。夜が眠るというのは夜という楽しくもロマンチックでもある時ではあるがそうした楽しみやムードが低調な状態にあるということだ。味気のない夜だということである。
そして上の歌詞を経由して最後のサビに入っていく。この曲のラストは「誰かの腕の中で 甘い夢を見ながら 眠れたらなぁ」という歌詞で終わる。ここには、運命の相手をいつか見つけて幸せに眠りにつきたいという語り手の思いが表れているといえよう。
以上『今夜このまま』の歌詞を考察してきた。この歌に表現されているのは運命の相手をずっと探してはいるが見つからず、そうした日々を過ごしてきて傷つき疲れている女性の姿・心境である。そしてその辛さがアルコールの力で少しだけでも癒されることを願う、そんな思いが表現されているのである。
『千と千尋の神隠し』考察――銭婆の家――
※1 登場人物の名前や作中独自の語句が頻出する場合「」は省略。
※2「」は固有名詞または引用時に使用。
※3〈〉セリフが曖昧な場合の作品からの引用時に使用。
※4 “”は筆者が強調したい言葉において使用。
本稿においては『千と千尋の神隠し』で千尋が銭婆の家を訪れる場面について考察を加えていきたい。
そもそも銭婆の家はどのような特徴があるだろうか。藁葺き屋根で、木の柵や煙突のある外観をしている。また家の中には様々な古い道具があり、まるで古民家のようだ。銭婆の家からは穏やかで暖かいイメージが感じられる。また銭婆自身の行動はどうだろうか。「よく来たね」と声をかけたり座らせてお茶やお菓子を出してもてなしたりする。またこの場面千尋は銭婆にハクのことをどうにかしたいと相談し銭婆はそれに対して助言を与え、そして〈自分でやるしかない〉と厳しくもあるが背中を押す言葉をかけている。このようなことを踏まえるとこの場所は“故郷”のイメージを持つ場所であるといえないだろうか。銭婆の振る舞いやこの家の様子からそうしたイメージは作中で顕著に表れているように思える。そして故郷という場所はいわば自分が自分でいられる場所である。この銭婆の家で千尋が椅子の上で背を向けて丸くなっている場面がある。ハクが大丈夫か不安で思い詰めている様子である。こうした姿勢は湯屋では決して許されなかったものだ。またその直後千尋は銭婆に「おばあちゃん、やっぱり帰る」という。泊っていくよう言われたが自分の都合で、自分の思いからそれを覆すのである。これが自由な振る舞いでなくて何であろう。またその後「こうしている間にもハクが死んじゃうかもしれない、お父さんとお母さんが食べられちゃうかもしれないと」素直に自分の思いと感情とをさらけ出している。まさに千尋が千尋でいられていると言えないだろうか。銭婆の家とは千尋が自分の気持ちを確かめられる、その思いを素直に出せる場所なのである。そしてこの銭婆の家は「沼の底」という駅にある。沼はそこに入れば泥がまとわりつき足をつくこともままならずもがき苦しむ場所である。しかし一方で底、というのは一旦そこにたどり着けば安定しているし落ち着くことが出来る確かな場所である。「沼の底」という名前には、もがき苦しむ日々の中で、様々な思いを抱く日々の中で、安心し落ち着ける場所、自分の心の奥底にある素直な思いを確かめられる場所、そういう意味が込められているのではないだろうか。
千尋はそのような場所で自分の思いを確かめることが出来た。だからこそ彼女は銭婆との別れの場面で改めて「私の名前は千尋っていいます」と言うのである。自分の意志を自分自身というものを確認することが出来たことをこの別れの場面は表しているのである。
『千と千尋の神隠し』考察――電車の場面について――
※1 登場人物の名前や作中独自の語句が頻出する場合「」は省略。
※2「」は固有名詞または引用時に使用。
※3〈〉セリフが曖昧な場合の作品からの引用時に使用。
※4 “”は筆者が強調したい言葉において使用。
本稿では『千と千尋の神隠し』の中で千尋一行が電車に乗る場面について考察したい。この場面は様々なウェブサイトで「千尋は死んでいる」「皆幽霊だ」などと考察がなされているが、果たしてそのように単純に考えて良いだろうか。仮にそのような「あの世」に関連した意味があるとして果たしてそれは物語の文脈に沿うのだろうか。非常に抽象的な場面ではあるがこのシーンについて改めて、どのように解釈できるか考えていきたい。
まず乗客たちのことについて考えていきたい。千尋が乗った電車には何人かの乗客がいた。この場面をよく見るとその乗客には明らかな共通点があることに気付く。以下書きだすと、
1.何かしらの被り物をしている 2.太っている 3.うつむき加減 4.厚い上着を着ている 5.黒くて透けている 6.全員が一人で乗っている 7.大きな荷物を持っている 8.恐らくそれなりに年を取っている
というようなことがあげられる。これは乗客全員に共通する点である。これだけ多くのことが乗客には共通しているのである。ここに何かあると思わない方がおかしい。またこれらの人々を単純に幽霊ととるには、あまりに幽霊という概念にそぐわない多くのイメージがある。ではこれらの特徴についていくつか考えてみよう。太っている、というのはどのようなことをあらわしているのだろう。彼らは皆怠け者なのだろうか。自己管理が出来ていないのだろうか。というよりもこの場面で太っているというのは裕福さを表しているのではないか。彼らは荷物も多く、また服装もそれなりにキチンとしている。それを踏まえれば太っているということは裕福さを象徴していると考えられないだろうか。また黒くて薄いという点も考えていきたい。この特徴はカオナシとも共通している。黒とは個性が無い色、薄いもまた同じことである。自分らしさを持たないということである。そしてその人独自の個性をもたないということはまた人間らしさも失っているということである。また、一人で乗っているということはどういうことだろう。それは孤独であるということだろう。そしてうつむき加減というのは後ろ向きな姿勢を表している。進むべき道を見据えられていないともいえる。帽子は表情が見えない。それもまた自分らしさの欠如の一種だろう。以上それぞれの項目においてざっくりと考察したがここからさらに深めていきたい。
では彼らは現実ではどのような人を表すのだろうか。そのことを考えるためにまずは湯屋という場所について考えてほしい。この物語のテーマを暗示する湯屋と言う場所は先の記事でも述べた通りいわゆる“ブラック企業”のような場所だったことを思い出してほしい。湯婆婆は人の名前を奪い数字として扱う。湯屋は人間らしさを奪われる仕事場である。ハクが死にかけの時に穴に捨てようとしたことからもわかると思う。この映画において焦点を当てられているのはそうした人間性を奪われる環境、社会の在り方なのである。そしてまたこの電車の乗客もまた個性を、人間らしさを失っている。また彼らは裕福であり年もそれなりに取っている。つまり彼らは熱心に仕事をしてお金を稼ぐことが出来たがその結果自分らしさを、人間性を失った人々なのだ。人間性を失った人には共に旅をしてくれる友人などできるはずもない。では彼らは何をしているのだろうか。それぞれ大荷物を抱えて。彼らがしているのは旅である。電車に乗る、大きな荷物を抱えるそこからイメージされるのは旅ではないだろうか。宮崎駿が「銀河鉄道の夜」をモチーフにしたと述べていることからもそのことは明らかだと思う。では何のために旅しているのだろうか。自分らしさを失った人間がする旅と言えば“自分探しの旅”であろう。または“自分の居場所や故郷を探す旅”ともいえよう。なぜなら故郷は自分が自分でいれる場所だからだ。そうした自分探しの旅をする彼らは果たして自分の居場所をみつけることが出来るのだろうか。その答えもまた作中に描かれている。「沼原」という駅で彼らは下車する。ここで重要なのは彼ら全員がそこで下車するということだ。彼らは“みんなと同じところ”で降りるのである。自分らしさ自分だけの居場所を探すはずなのにこれではそんな場所にはたどり着けるはずがない。しかしながら彼らはもう個性を失ってしまうから進むべき指針を持つことは出来ないのである。
以上ここまで考察してきたところでこの電車の場面が示しているものを述べていきたい。ここには仕事に熱中することで自分らしさ・人間らしさを失った大人たちが描かれている。そして何より彼らの行く末が語られる。彼らは年を取って自分を探す旅に出る。失った自分を、いるべき場所を探す旅に出る。しかしその場所が見つかることは無いのである。長い年月をかけて失った人間らしさはもう取り戻すことはできない。彼らは永遠に自分探しの旅を続けるのである。だからこそ釜じいはこう言ったのではないか。「昔は戻りの電車があったんだけど、最近は行きっぱなしだ」と。また千尋に「間違えるなよ」と再三降りる駅に注意をしたのは、自分を見つけられず永遠に彷徨う人々に巻き込まれないようにしなさいということではないだろうか。
前段までで乗客について述べてきたがここ場面における千尋についても述べたい。千尋はこの乗客と綺麗な対称を為している。彼女はこの場面ずっと顔を上げて前を向いている。またカオナシやネズミやハエドリという友人と共にいる。勿論色もある。また個人的にとても好きな場面がある。それが彼女たちが電車に乗って座る場面である。左から千尋、カオナシ、乗客と三人が並んで座るのである。それはこの作品のテーマを形成するある種の人間像が端的に象徴されているのである。千尋は確かな自分・人間らしさをもった子供、カオナシはまだそうしたものをもつことが出来てない子供、そして乗客は年をとってそうしたものを失ってしまった大人である。蛇足であったかもしれないがこの場面は非常に印象的であった。また電車の最後の場面は千尋が電車の進む方向をじっと見つめる横顔がクローズアップされる。そこには人間らしさを持つ者の姿勢、自分の進むべき方向をきちんと見据える、そうした姿勢が表されているのである。
『千と千尋の神隠し』考察――千尋と従業員の対比――
※1 登場人物の名前や作中独自の語句が頻出する場合「」は省略。
※2「」は固有名詞または引用時に使用。
※3〈〉セリフが曖昧な場合の作品からの引用時に使用。
※4 “”は筆者が強調したい言葉において使用。
本稿においては従業員が金を貰うためにカオナシを過剰にもてなす場面を考察の対象としたい。そこで明らかにしたいことはこの物語における従業員はどのような存在なのかということである。正確に言えばどのような人間を象徴しているかということだ。物語において言葉を話す動物が特定の人間の姿を表すことがあるというのは物語に馴染みのある人ならば感得していることだろう。『千と千尋』においてもこれら従業員はある種の人間の姿を表している。またそうした従業員と対照をなす千尋の姿についても改めて考察を深めていきたい。
カオナシは皆が寝静まった後の風呂場に居座り、そこを青蛙が見つけて「客人ではないな、そこに入ってはいけないのだぞ」と警告を与える。しかしカオナシは金をちらつかせ、それに釣られた青蛙はカオナシに飲み込まれてしまう。まずはこの一連の流れを考えていきたい。はじめ蛙はカオナシに注意する。客ではない相手が自分の働く店で怪しいことをしているのだからその行為は正しいことだ。従業員として模範的な行為と言っても良い。しかしその後カオナシが金を落とした途端に金に夢中になってしまう。カオナシが何者か、カオナシをどうにかすることそっちのけで金につられてしまうのである。挙句青蛙はカオナシに飲み込まれてしまう。彼はお金につられて自分の従業員としての正しい姿勢を捨ててしまうのである。要するにお金に飲みこまれてしまうのである。ここには金によって職業倫理感を捨ててしまう、卑俗な人間の姿が象徴されているといえないだろうか。
その後もそのような描写は続く。本来開店するはずの時間よりも早い時間からお湯を沸かし従業員総出でカオナシをもてなしている。しかしながらこのとき他の客はどうしているのだろうか。少なからず泊りの客もいるはずで彼らにとっては大変迷惑この上ない。しかしそれを放っておき、金をくれるからと彼らはカオナシにつきっきりになる。またカオナシは湯船の中でごちそうを食べている。どう考えてもマナー違反だろう。そしてまたそれを黙認している従業員もまた褒められたものではない。ここには金銭的なもののためならば他の客のことも店のマナーすらも無視してしまう、浅はかな人間の姿が映し出されている。
そしてそうした姿と対照的なのが千尋である。千尋は金のことには目もくれずにまずは自分の部屋に戻る。そこで白い龍を目撃する。そのとき咄嗟に〈ハク、こっちよ〉という。千尋は白い龍がハクだと気付くのである。千尋は作中できちんと人として大切なモノをもっている。目に見えないものを感じる力があるのである。その後湯屋の上階にいったことを見た千尋はハクを追うために部屋を出て上に行こうとする。そこでカオナシと向かい合うわけだ。その時カオナシは千尋に金を差し出すが千尋は「いらない」という。そして一礼してカオナシの横を通り過ぎる。その時にカオナシの手から大量の金が零れ落ち、従業員はその金に向かって殺到する。一方で千尋はその真逆の方向へと人並みをかき分けて進む。ここに従業員と千尋の明らかな対比的構図が表れている。従業員は職業に対する倫理観よりも完全に金銭的な欲求を優先している。目に見える金だけが彼らにとって優先すべきものである。一方で千尋は金には目にくれずハクの元に行く。ハクという自分にとって大切な人の元に行くのである。
ではここでもう少しこの従業員たちについて言及していきたい。男の従業員はカエルであり女の従業員はナメクジである。彼らにどのような共通点があるだろうか。まず単純に湿気を好むということである。それは湯屋だからということがあげられる。だが果たしてそれだけだろうか。彼らに共通する性質は、そしてまた千尋と比べたときに生物として対照的な性質は変温動物だということである。変温動物というのは体温が状況に応じて変化する動物である。そのことを言い換えるなら変わらない温かさを持たないということである。そうした性質は彼らの姿勢と一致しないだろうか。金に応じてその対応を変える彼らの態度だ。一方で千尋は金に惑わされることなくハクの元に行く。ハクへの思いやりを変わらず持ち続ける。先ほどの言い方に沿わせるならハクへの変わらない温かさを持っている。それが千尋である。言い換えるならば金や目に見える欲望の対象によってその熱を変えるのは動物であり、そうしたものに惑わされることなく思いやりという変わらない温かい思いを持っているのが人間であるということだ。
カエルやナメクジといった湯屋という場で働くものたちはまさに人間らしさを失った卑俗な人間像である。一方で千尋はそれとは対照的な人間といえる人間なのである。
『電脳コイル』におけるイサコとヤサコの成長
※1 頻出する登場人物の名前の「」は省略。
※2「」は固有名詞または引用時に使用。
※3〈〉セリフが曖昧な場合の作品からの引用時に使用。
※4 “”は筆者が強調したい言葉において使用。
本稿においてはアニメ『電脳コイル』における二人の主人公であるイサコとヤサコの成長について考察していきたい。必然的に物語の終わりに触れることになるので最終話の終わりの方のシーンもまとめて考察していきたい。
〔イサコの成長〕
物語の終わりではイサコは「あっち」の世界に囚われてしまう。しかしながらヤサコの呼びかけによって「痛みを感じる方向」へ進むことが出来、意識を取り戻すことが出来る。この場面の意図はかなり明確なようにも思えるが改めて考えていきたい。
先の記事でも考察した通り、イサコは幼い子供の心を持ったままだった。兄に依存し、兄の死を認めず甘い世界にだけ浸っていたいと(本人は気付いていないながらも)考えていた。そしてまた過剰な罪悪感に浸ることもあった。兄の死が自分の原因だと思い、またカンナの死も自分が原因だと考えるようになった。それはすなわち現実を正確に捉えられていなかったということである。そしてイサコの弱さはミチコに付け込まれる要因となり彼女は「あっち」の世界に囚われることになる。この「あっち」の世界に囚われるというのは結局のところ自分に都合の良い空想の世界に浸ることに他ならない。それは弱さから目を逸らし続けることでもある。
しかしながらイサコはヤサコの呼びかけによって、特にヤサコの心からの呼びかけによって「あっち」の世界すなわち甘く優しい思い出の世界から抜け出すことが出来る。それは自分の弱さを克服したということであり大人になったということである。現実の世界に戻るということは兄のいない世界に戻るということである。それは今まで目を逸らしていた兄の死を受け入れることに他ならない。そして死を受け入れるつらい現実と向き合うということは子供から大人になったことに相違ない。
ではなぜイサコはその世界から抜け出すことが出来たのか。根本的には成長することが出来たのか。それはヤサコとの触れ合いがあったからである。イサコは作中でヤサコに〈こんなに自分の近くまで来てくれたやつは初めてだ〉と言う。そんな風に自分の心に近づいてくれる人がいたからこそイサコは物語を通して成長することが出来たのではないだろうか。なぜなら自分の殻に閉じこもるのではなく他者と触れ合うことこそが人を成長させることにつながるからだ。
またイサコとヤサコは幼い頃同じ人を好きになっていた。イサコにもそれは当てはまるのかと思う人もいるかもしれないが、初恋が兄というのはよくあることではないだろうか。そうした子供時代の思い出を共有している人すなわちどこか自分に似ている人を通して自分を知るのは不自然なことではないだろう。イサコにとってヤサコは他人でありながらもまた自分を映す鏡でもある。だからこそ彼女たちの名前は同じ「ゆうこ」なのである。自分にどこか似ている他者、今の自分を映し出してくれる人と触れ合い向き合ったからこそ自分の弱さを知れたのではないだろうか。もしくはそもそも人と向き合うことこそが自分を知ること、成長することにつながるのだろう。イサコとヤサコ、同じ「ゆうこ」の対立はこのことを表しているのではないだろうか。
そして何よりイサコが「痛みを感じる方向」に進むことが出来た直接のきっかけはヤサコの呼びかけである。「勇子の勇は勇ましいの勇」という言葉である。ではその言葉によって「痛みを感じる方向に」進むことが出来るとはどういうことだろうか。先ほど引用したヤサコの言葉をきっかけにして、彼女は成長することが出来た。この過程で起きていることは、名前の意味を改めて捉えなおしたということである。そして名前とは自分自身を表す。つまり自分自身の強さを、自分の中にある勇ましさを発見するということである。言い換えればイサコはヤサコによって強さを与えられたということである。ヤサコとの交流を通して少しずつ自分の心の真実を知っていったイサコではあるが、ここで自分には痛みの方へ向かうことの出来る勇ましさがあることを認識するのである。それが直接のきっかけとなっている。
イサコが前に進む決意をしたとき、彼女のツインテールがほどける。それは子供の自分からの脱却を果たすことを表しているだろう。兄に囚われていた自分から抜け出し、ツインテールという幼い自分を捨て、大人になることを表している。
そして鳥居の階段で光の中でイサコと対面する。「あっち」の世界とは心の奥底である。その中で二人は向き合うのである。それは無論二人の心が奥底でつながったことを意味するのだろう。その場面、イサコは〈なぜ自分がヤサコを嫌いだったか分かった〉と言う。その理由はもちろんヤサコが兄にキスをしたからである。それはヤサコに対する嫉妬心である。それを認めるのは誰にとっても嫌なものだろう。しかし彼女はそれをも認めることが出来た。他者の前でそれを認めることが出来たのである。
物語の最後でイサコがヤサコに電話をかける場面がある。その時に私の「名前はイサコだ、あんたがつけてくれた名だ」という。それは他者がつけたものであり、自分以外の誰かと心を通わせたことによってつけられたものである。また「勇子の勇は勇ましいの勇、だからイサコ」と言われることで、イサコは痛みの方へ進むことの出来る勇ましさを持った人になることが出来た。自分の中の強さに気付くきっかけを与えてくれたのはヤサコである。イサコの中の勇ましさとは、ヤサコとの心の触れ合いによって芽生えたものである。イサコのセリフから分かる通り、物語の最後における“イサコ”の名はヤサコがつけたものである。言い換えるならば“イサコ”の名は兄に付けられた名前ではなくなっているということである。それはすなわち兄に依存し、その死を受け入れられない過去の弱いイサコではなくなったということである。そして何より、イサコの持つ勇ましさはヤサコとの交流によって抱くことの出来た大切な長所だということ、自分一人では手にすることが出来なかった自分らしさだということである。イサコは兄に付けられたただの暗号ではなく、自分の名を、ひいては自分自身の長所を友人が見つけてくれたものとして、人とのつながりを通して手に入れたものだとここで認めているのである。
〔ヤサコの成長〕
次にヤサコについて考えたい。ヤサコはイサコの心と繋がったとき、ミチコを作ったもう一人が自分であることを正直に告白する。それはヤサコが自分の過ちに気付くことであり、それを認めることである。ヤサコはイサコと共に自分の過ちに気付くのである。彼女たちは決して自分一人で成長し、弱さを克服しているわけではない。この物語はそうした交流による成長をクローズアップしている。
その後最終話のラストでヤサコはハラケンに対して〈ミチコはどんな気持ちが産んだんだろう〉というがそれに対してハラケンは初恋という答えを提示する。初恋というものはそのときには気付けないものだ。なぜならそれは初めての経験だからだ。それをきちんと初恋だったといえるのは“初恋”という状態から抜け出したということだ。あれが初めての恋する気持ちだったと距離を取って認識できたことはやはり、一歩大人になったことを意味しているのだろう。
また、最後にメガネをかけてないのにデンスケの姿が道の先にふと見えるというシーンがある。そして京子に「見えた?」と聞くと京子も頷く。この描写はどのようなことを表しているのだろうか。
京子もヤサコも様々な場面でデンスケに助けられた。京子は家でヌルに意識を連れ去られた時にデンスケにおぶってもらった。そして「あっち」の世界から電脳の体から抜け出すことが出来、無事意識は肉体に戻ることになった。その後デンスケが死んだあとに京子は〈デンスケは柔らかかったよ、ふかふかだったよ〉という。またヤサコも金沢で「あっち」に入って抜け出すときにデンスケに会う。電脳の世界で。そして彼女はデンスケにサヨナラを言って現実の世界に戻ってくる。そこでヤサコも〈毛並みがふかふかだった〉と言うのである。これらのことはどんなことを意味するだろうか。大切なことは大人たちが〈触れないものは本物じゃない〉と述べるところである。しかしながらそれに対してヤサコは〈触れないけれど胸に感じるこの気持ちは本物だ〉と言う。こうしたヤサコのセリフはもちろん我々も賛成できる主張だろうと思う。電脳の世界であるにしろヤサコはデンスケに触れることが出来たのである。デンスケのことを確かに感じることが出来た。それはつまり電脳の世界であろうとも本当の触れ合いを果たしたということである。本物の交流をしたということである。それはどのような形の交流だったろうか。もちろんあたたかでやさしい交流だ。しかしながら生き物はいつか死ぬ。つまり電脳の世界であろうとも本物の交流はあるし、死もあるのだ。そしてヤサコはきちんとさよならとありがとうと言う。こうしたことはどのようなことを意味しているだろうか。まず大前提としてデンスケとの心の交流は本物なのである。デンスケとそれまで過ごした日々は決して偽りのモノではなく本物の心の交流であるということだ。電脳ペットは子供と心の交流をする存在である。様々な愛情を注ぐこと、守り守られることを通して子供の心は成長していくのである。デンスケとのかかわりは子供たちに感情や楽しみや喜びや痛みなど様々なことを教えてくれるのである。ヤサコはそれに対してありがとうと言ったのである。それだけではない。そういう存在とサヨナラをする。それは死を受け入れるということだ。死をきちんと受け入れることは人が人として成長するためには欠かせないものだろう。デンスケありがとうとサヨナラを言い、毛並みがふかふかだったと感じることは、デンスケと本当の心の交流をし、それによって自分がここまでこれたことのお礼を言い、そしてその死を受け入れたということを意味する。
そうしたことを受けてラストのシーンを考えたい。彼女たち二人の人としての成長にデンスケは深く関わっている。デンスケはある意味で彼女たちの心の一部を為しているのである。だからこそ、彼女たちの心の一部になっているデンスケは、本当の心の交流をしてきたデンスケは彼女たちの心のどこかにいるのである。そしてその心のどこかにいるデンスケはふとした時に彼女の傍に現れるのである。ふとした時にその存在を彼女たちは感じるのである。デンスケがメガネをかけてなくても見えたのはそのようなことを意味するだろう。またヤサコが京子にそのことを確認して京子も同意するという場面は、彼女たち二人が自分たち二人の心の中にデンスケがいることを確認したということを意味するのである。
『君の名は。』考察 ――作中における物語の主題(山頂の場面以降の描写から)
※1 登場人物の名前や作中独自の語句が頻出する場合「」は省略。
※2「」は固有名詞または引用時に使用。
※3〈〉セリフが曖昧な場合の作品からの引用時に使用。
※4 “”は筆者が強調したい言葉において使用。
本稿においては、三葉と瀧が山頂で出会った場面、それ以降のストーリーに考察を加えていきたい。そしてそのことを起点として物語全体の持つ意味、その解釈を述べていこうと思う。山頂での出会いの場面以降は三葉が中心の描写になっていく。三葉は父親を説得するために走り出す。途中三葉は盛大に転び、手のひらを見るがそこに書いてある文字は「すきだ」という文字だけであり、瀧の名前はやはり思い出せなくなってしまっていた。しかしながら三葉は転んでも立ち上がり走り続け父親の元に行き直接の描写はないにしろ父親を説得し動かすことに成功し、無事町民は避難することが出来る。ではこの場面はどのような意味を持つだろうか。
まず三葉が瀧の名前を忘れるというのは先の記事で説明した瀧の場合と同様である。あのとき胸に抱いた夢の具体的な何かは大人になるにつれ忘れてしまうものだ。その明確な形を失ってしまうものだ。しかしすぐさま跡形もなく消え去ってしまうものではない。具体的な形は忘れてしまっても情熱は残る。熱い思いはそうすぐには消えない。頑張ろうと思い、何かしなくてはいけないという思い、胸にまだ感じられる大切な何かを守りたいという衝動は残るのである。ましてそれは瀧から受け継いだものだ。託されたものだ。三葉が瀧のことを忘れてもなお走り続けるのは、そうした具体的な形は失っても夢を守りたいという情熱が残っていることを示している。たとえこれから大人になってそのことをさらに忘れてしまうとしても、今確かに胸にある衝動のために、自分が心に抱いた夢を守るために走る、そういう行為なのである。
さてそのあと三葉は父親の元に行くわけだが、そのことの意味を明らかにするために、まず勅使河原のことに触れておきたい。先の記事で触れたが三葉と勅使河原は共通する問題を抱えていた。自分の親に対する嫌悪感や反発心であり、その親もしくは家庭の事情に縛られることへのコンプレックスである。勅使河原は住民を動かすために父親が管理する設備を自作の爆弾で爆破して事故が起きたように見せかける。しかしその後父親に見つかり、問い詰められ万事休すと言った形になる。このことは勅使河原にとって大きな意味を持つ。彼は物語の冒頭で父親から〈明日仕事を手伝え〉とか〈きちんと返事をしろ〉などと(やや悪い意味で)“息子”としての扱いを受けていた。自分の仕事を継ぐのが当然といった態度であり、息子をある種縛るような、将来を断定的に決めるようなそういう態度であった。そんな父との関係において勅使河原は息苦しさや反発心を抱いてはいるが、〈将来は家の仕事を継いでずっと糸守にいるしかない〉と名取に述べるように半ばその状態を諦めている。しかし勅使河原はこの避難作戦で自分の父親の管理する設備を爆破する。このことは自分が反発心を持っている父親に対して戦いを挑むことであり、父親の締め付けに抗い立ち向かう行為である。ここにきて勅使河原はただの“息子”ではなくて一人の“男”として成長するのである。勿論最終的には父親が現れるのではあるがそれが乃ち結局敗北したということではない。そもそも勝ち負けの話ではないし、父親に抗った、弱い自分を克服したという事実がこの場面のポイントである。だからこそ物語の最後、彼は父親の仕事を継ぐことはせず東京に出てきているのである。
そうした勅使河原の描写を踏まえた上で三葉が最後に父親の元に行く場面について考えていきたい。述べたいことは基本的に勅使河原のことと同じである。物語冒頭で三葉は父親に頭が上がらないこと、それをコンプレックスと思っていることが示されていた。端的に言えば父親が苦手であり父親を避けていた。言い換えればそれは自分の弱い部分から目を逸らすということである。しかしこの彗星騒動の最後で彼女はその自分が苦手だった父親と、自分が自分であるがゆえに逃げることの出来ない家の問題と向き合う。まだ瀧が三葉の中にいるときに「俺じゃだめなのか」と瀧は言うが、瀧に三葉の父を説得できないのは“父親と向き合うこと”は三葉が向き合わなければならない問題だからである。では三葉が父親と向き合うことができたのはなぜだろうか。それはもちろん瀧に思いを託されたからである(人が死ぬからというのももちろんだが)。山頂のこと以降、三葉は何か自分の胸にある衝動に、大切な夢を守りたいという衝動に突き動かされているのである。それは瀧から託されたものであり、胸に抱いた青春時代最後の情熱と言っても良い。そうして彼女は父親の元に行く。苦手だった父親と向き合う。それは避けることの出来ない自分の中の問題と、弱さと向き合うのである。それはまさしく成長することに他ならない。自分が向き合うのを避けてきた父親と向き合い戦うというということは三葉が大人になったことを、子供から抜け出したことを示している。つまり彼女は青春時代に抱ける最後の情熱に突き動かされて自分が目を背けていた弱さと向き合い戦ったということだ。これが大人になるということではないだろうか。大人になることの在り方ではないだろうか。人は夢を見る。憧れや理想を胸に抱く。それは特に青春時代に特有のものかもしれない。しかしそうしたものは大人になるにつれて次第に忘れていってしまう。そうして人は大人になっていくのである。けれども人はただそれを忘れるわけではない。その夢や理想を実現するために、失わないためになんとかあがくのである。必死に夢を守ろうと現実と戦うのである。そうした行為や情熱を通じて人は自分の弱さと向き合うことをしていく。そんな風にして人は大人になっていくのである。そのような青春時代の夢とその喪失と、それを守るためのあがきと戦いと、そして大人になることの意味が『君の名は。』には描かれているのではないだろうか。
では次に物語冒頭やラストのシーンの意味を考えていきたい。
まずこの物語は「朝、目が覚めるとなぜか泣いている。そういうことが時々ある」「見ていたはずの夢はいつも思い出せない。ただ・・・」「ただ何かが消えてしまったという感覚だけが、目覚めてからも長く残る」「ずっと何かを誰かを探している」「そういう気持ちに取り憑かれたのは、たぶんあの日から」「あの日、星が降った日、それはまるで・・・」「まるで夢の景色のように、ただひたすらに」「美しい眺めだった」という二人のモノローグから始まる。ここまでくればこのセリフの意図は明確だろうと思う。「見ていたはずの夢」と言うのが青春時代に胸に抱いた夢である。しかしそれは大人になるにつれ忘れていくものである。けれどそれを失った、その大切なことを忘れてしまっているという感覚は残っている。だからこそ「見ていたはず」なのであり、忘れてしまったからこそ悲しいのである。大切な夢を失ってしまったという感覚、むろんその夢の形や名前やかつて抱いた情熱は思い出せない、それはとても大切なモノなのに。だからこそ理由はわからないが泣いているのである。それからその後の場面では彗星が降る様子が描かれる。そこでクローズアップされるのは中学二年生の瀧がマンションの屋上で彗星が降る様子を見る場面だ。彗星の降る「夢の様に」「美しい眺め」を見たときから「ずっと何かを誰かを探している」気持ちに憑りつかれたと述べられる。このことは何を表しているのだろう。空に彗星が流れる様子は「夢の様に」「美しい眺め」と言われる。しかしながら彗星が降るというのは現実に起きたことである。つまりこの世界には、現実には信じられないような夢のような素晴らしいことが起こる、ということである。それを認識し感じ取ったということなのである。だからこそ彼らは「ずっと何かを誰かを探している」と思う。彼らは彗星の光景を通して夢みたいなことが現実に起こる光景を見た。夢が現実になるものだということを信じることが出来た。そう思うならば次に思うのは“自分の夢とはなんだろう”“自分が見たい夢、自分が信じたい夢”とはなんだろうということないだろうか。現実に夢みたいなことが起きることを知って、それなら自分の中の夢って何だろうか。そう思うようになる。それが「ずっと何かを誰かを探している」「そういう気持ちに取り憑かれたのは、たぶんあの日から」「あの日、星が降った日、それはまるで・・・」「まるで夢の景色のように、ただひたすらに」「美しい眺めだった」というモノローグが示していることではないだろうか。
また彗星の場面が終わったあと瀧が就活している場面がある。そこで〈スーツが恐ろしいほど似合わない〉と言われているが、それはまた瀧が大人になり切れていないことを意味している。だがこれは決して悪いことではなくて就活の面接で〈大切な風景を守りたい〉というコメントをしていることから、まだ自分が高校生の頃に抱いた大切な夢を守りたいという気持ちがあるということを示している。そんな気持ちとは良い意味でまだ“若い”気持である。だから大人のユニフォームであるスーツが似合わないのだ。
そして物語のラストはどうなるかと言えば、瀧と三葉は再び出会うことになる。今度こそ現実の世界で。それはどんなことを意味しているだろうか。端的に言えば夢が現実になるということだ。ただそれはさすがに端的に過ぎるのでもう少し詳しく述べたい。瀧にとって三葉とは(またその逆も)自分が必死に守ろうとした夢なのだ。青春が終わろうとする時期に必死になって失わないようにつなぎとめようとした夢だ。確かにその夢は忘れてしまったが努力は無駄に終わるわけではない。例え大人になってしまったからと言ってその夢は完全に失われるわけではない。その努力は無駄ではないのである。あの頃の夢とその夢のための努力はある時ふと報われる時が来る、夢は夢なんかではなくて再び、少し違った形で自分の前に表れる。現実になった夢といつかで会える時が来る。そうした希望を『君の名は。』のラストは示している。
最後にタイトルについて述べよう。『君の名は。』と言うタイトルは英語で「your name.」と書く。疑問ではないのである。なぜなら「君」という“自分の相手”すなわち“自分だけの夢”は青春時代にはっきりとわかっていたものだからだ。けれども大人になる過程で忘れてしまうのである。そしてその忘れる過程の中で彼らは奮闘する。かつて胸に抱いていた夢、今忘れかけている夢、名前を失いかけている君(自分の相手、自分のための夢)をめぐっての物語、だからこの物語には「君の名は。」“自分がその名を知っているはずの夢。”というタイトルがついているのである。
「君の名は。」考察――瀧と三葉との最後の入れ替わりから山頂のシーンまで――
※1 登場人物の名前や作中独自の語句が頻出する場合「」は省略。
※2「」は固有名詞または引用時に使用。
※3〈〉セリフが曖昧な場合の作品からの引用時に使用。
※4 “”は筆者が強調したい言葉において使用。
本稿においては瀧がご神体の元に行き三葉と最後の入れ替わりをしたその後のシーンについて考えていく。
まず瀧は彗星が落ちる日の朝の三葉になる。そこで彗星が落ちる前に住民を避難させる作戦を名取と勅使河原とを巻き込んで練っていく。これはどのような行為だろうか。勿論糸守の人を、また三葉の命を救う行為だ。けれどただそれだけではない。三葉は瀧が胸に抱いた大切な夢である。彼がしているのはそれを守ることだ。ご神体の元に行ったことと併せて彼がしているのは青春時代に抱いた夢を守ろう、それを失おうとしている今なんとか繋ぎとめようとする必死の努力なのである。
そしてその後瀧は父親を説得しにいくのだがそれは失敗に終わる。そしてその役目が三葉でなければいけないと思い立ち、元の三葉を呼び戻すためにご神体のある山に行く。そこで「かたわれどき」が訪れて高校二年生の瀧と高校二年生の三葉は対面を果たす。作中において非常に感動的なこの場面はどのようなことを意味しているのだろうか。そもそも「かたわれどき」つまり“黄昏時”とは人ならざる者、たとえば死者が現れるときである。そこからもう一歩踏み込んで考えていこう。正確には死者が生者の前に表れるときなのである。すなわち生と死が交わる時間といえる。どうしてそのような発想が生まれるかと言えば夕暮れとは昼と夜の境だからだ。昼=生の時間/夜=死の時間、それが交わる時だからだ。そして生と死というのは本来交わることのないものである。なぜなら死んだら人は生き返ることはないし、生者が死者と話すことは出来ない。つまり夕暮れが持つ最も原始的なイメージは“本来交わるはずのないものが交わる時間”なのである。だからこそこの本来違う時間軸に生きている二人が出会うことが出来たのが「かたわれどき」なのである。
そうして初めて出会うことが出来た彼らであるが、二人は非常に喜ぶ。特に三葉は。それは話の流れからして当たり前だろうという意見もあるだろうが改めてなぜそれほど喜ぶのかを説明しておきたい。それは夢が叶ったからである。儚い夢だと思っていたことが現実になったからである。それはとてつもない喜びだろう。だから彼らはあんなにも嬉しそうなのだ。ここまでの文脈を無視して好きな人に会えたからという理由付けはやや正確さに欠ける。
そしてまたここで起きる重要なこととして組紐を瀧から三葉に渡すということがあげられる。三葉が瀧に組紐をわたすという行為は夢を現実につなぎとめるための努力だといった。そしてまたその三葉の思いが瀧をご神体に向かわせた、三葉の思いは夢をつなぎ留めたいという瀧の思いと繋がり、再び入れ替わりが起きて失いかけた夢をつなぎとめることができた。そして山頂で瀧の思いが、どうにかしてこの夢をつなぎとめ守ろうとする意志が三葉に託されるのである。そして三葉はその組紐を頭に結ぶ。短くなった髪に。瀧の意志を貰って自分に気合を入れるのだ。けれど微妙に似合ってないというリアクションを瀧はする。どうしてだろうか。このことはどのようなことを意味しているだろうか。組紐は彼らが抱いてきた夢への情熱、それを守ろうとする意志だからだ。そうした思いは青春時代だけのものだ。分かりやすく言えば子供だけが持てるものだ。しかしこの時の三葉は髪を短く切った三葉だ。青春時代に一区切りつけて少し大人になった三葉である。夢を守ろうという少し青臭い若い情熱・意志が、それを象徴する組紐が、少し大人になった今の彼女と微妙に合わないのは当然ではないだろうか。
それから二人は忘れないようにお互いの手に名前を書こうとする。しかしその途中で「かたわれどき」は終わってしまい、二人は別れることになる。そして瀧はもう忘れないように繰り返し三葉の名前を言うが結局は忘れてしまう。どうしても思い出せなくなってしまう。なぜなら三葉はいずれ忘れ去られる夢だからだ。青春時代の夢は次第に消えゆく運命にある。青春時代から離れれば離れるほど。あの時胸に抱いた情熱は、夢は、大人になればなるほど思い出せなくなってしまうものだ。今回出会えたのは瀧と三葉とが必死にもがいた結果起きた青春時代最後の奇跡だった。そしてそれが終われば大人にならなければいけない時が訪れる。彼らの夢が忘れ去られる時が来る。それが、瀧が結局は三葉の名前を忘れてしまうことの意味である。胸に何か情熱は残っていてもその具体的な名前を忘れてしまうことの意味である。青春時代に胸に抱いた情熱は確かにそこにあったものである。確かに自分が熱中し夢中になったものである。けれども皆そのことを、いつかは忘れるときがくる。大人になればなるほど記憶から遠ざかる。そうなる運命にある。そうしたことをこの場面は述べている。