考察と解釈と鑑賞

曲の歌詞・映画・その他さまざまな物語の考察と解釈

「カオナシ」考

 宮崎駿が監督した長編アニメーション映画『千と千尋の神隠し』(以下「千と千尋」)の中で「カオナシ」は重要な役割を果たしている。そのことはこの映画を一度でも見たことがある人なら意識的かどうかに関わらず感じていることだろう。本稿においてはこの「カオナシ」というキャラクターが本編でどのような存在として描かれているかを考察したい。

 「カオナシ」の特徴としては、特に物語の前半部まで、話をすることが無いということがまずあげられる。「あ……、あ……」という言葉とも言えない声を発するが、それ以外にはしゃべったりしない。単純に連想されることはコミュニケーションが取れないということである。しかしながら彼は物語の後半でカエルや他の男の姿の従業員を飲み込んでからは割と自由に話せるようになる。ただし注意したいのは「カオナシ」自身の声ではなくカエルや従業員の声であるということだ。こうした描写はどのようなことを表しているだろうか。端的に答えるなら、他人の言葉を借りてでなければ話すことができないということだ。自分の言葉を発することができないのはそもそも表現する己を持たないからではないだろうか。だからこそ他人の言葉でしか話せない。こうした特徴がまず一つ上げられる。

 次に黒くて薄いという外見的な点について考えたい。黒とはどのような色であろうか。〈すべてを飲み込む〉〈強そう〉などとあると思うが、この場面に即して黒という設定を理解するなら〈無個性〉を示しているのだと考える。また薄く透けているという事実がそうした性質をより一層強めている。黒くて透けているという特徴から個性がなく影が薄いという性質が示唆されていると私は捉えたい。

 また彼はどこからともなく金を出して従業員たちに奉仕させる。彼は浴場でお湯につかりながら金をばらまき、飯をたらふく食べる。端的に言って他の人々が使う浴場でご飯を食べてはいけない。それは一般的な社会のルールである。お金を払ったからといって破ってはいけないルールがある。しかし彼は金を盾にして平気で破っている。「カオナシ」は人としての目に見えないマナーや倫理というものを理解していない。簡単に言えばそうしたものを感じる心がないのである。目に見えないルール、言い換えれば人としての大切な根本的な決まり、それを感じる心が無いということは人として決して一人前と認められない。それどころか〈人〉としても認めることは出来ないのではないか。

 そして彼は「千尋」から「にがだんご」を食べさせられて、そこからどんどん今まで食べたものを吐き出す。彼は食べ物を食べるにつれてどんどん大きくなっていったが、今度は吐き出すにつれて元の大きさに戻っていく。これはどのようなことを表しているのだろうか。食べ物を食べたならば普通はその栄養は体に吸収され、人は成長する。特に子供は。しかし「カオナシ」は吐いた分だけ元に戻っていく。したがって彼はたくさん食べたとしてもその栄養を吸収していないのである。栄養が栄養にならない、ものを内に取り入れても成長しない、なぜだろうか。それは核となる己がないからではないだろうか。確かな自己・人としての土台がなければどれほどの栄養を得ても成長することはできない。例えばどんなに良い助言を受けても本人に聞き入れる素直な心が無ければ助言は成長につながらないということである。そして素直な心とは人間が成長し生きていくにあたり礎石となるものだろう。以上のことを鑑みると「カオナシ」は人としての土台がない存在であるといえる。人としての土台とは目に見えないルールを感じる力・倫理や思いやりを感じる心・素直な心などである。またそのことを踏まえて表現を変えるならば「カオナシ」は図体ばかり大きくなって中身が伴っていない存在であるともいえるだろう。上記のような性質は彼が最終的に4足歩行になったことの説明にもなるはずだ。人としての土台がなくただ食べ欲望に従って動いていく。それは人ではなく動物だということではないだろうか。

 加えて彼は金で人の注意を惹こうとする。「千尋」に対しても金(対峙する場面では食べ物も)を用いて彼女の心を動かそうとする。こうした姿勢は人間的な魅力に乏しく心の貧しい人間が持つものではないだろうか。中身というものが無いから物質的なもので人を釣ろうとするわけである。

 最後に「カオナシ」はまだ子供だということを付言しておきたい。「カオナシ」と「千尋」が対峙する場面で彼女は「お父さんとお母さん、いるんでしょう? 」と言っているということがその根拠である。

 上記の様に「カオナシ」の特徴について考察を加えてきたが、まとめると次のように言える。彼は表現する己を持っていない。言い換えれば他人の言葉を借りてでしかものを言えない存在である。また、透明な黒ということから個性のなさや影の薄さを指摘した。加えて彼と食べ物との関係から彼には人としての土台が備わっていないことを述べ、それと関連して人としてのモラルを理解し感じる力がないということを述べた。さらには物質で人を釣ろうとするところから中身が伴ってないとも言った。つまりカオナシはどのような存在なのか、以上のことを端的にまとめると、自分というものを持たない存在、また人としての大切な心の土台ができていない存在だということである。だからこそ名前が「カオナシ」なのではないだろうか。〈顔〉とは自分の内心や思いが最も現れる大切な部分であろう。そのような〈顔〉がない、つまり表現する己を、人としての大切な部分を持たない存在、だから「カオナシ」という名がついているのではないだろうか。